第19話 primary12

「お前さー・・・・・・・・・アレ、いいわけ?」


会議室から出て来た真尋が、顎をしゃくって、見てみろとエントランスを示した。


何があるのかと視線を向ければ、何のことは無い、検診日にやって来た紗子が、市成と楽しそうに立ち話をしている。


今日もこの後どこかに出かけるんですかと言いたくなるような装いの彼女は、頬を染めて一生懸命に市成のことを見上げていた。


あの日、治験の説明会に来たときから分かっていた事だ。


彼女の興味はどこまでも真っすぐに市成だけに向かっている。


真尋には何も言っていなかったけれど、結局はこちらの不機嫌で、有栖川の気持ちはバレてしまった。


以来、尋ねてもいないのに、茜を通じて聞き出した紗子の休日の様子が勝手に耳に入って来るのだ。


自らすすんでファッションビルに買い物に出かけたがったり、髪を巻いてみたり、今日のように唇をアプリコットオレンジで染めてみたり。



それら全部は市成に会うためのものだ。


唇に触れられたいと彼女が望むのは、有栖川では無い。


二度もその華奢な身体に触れてしまったせいで、手のひらに残った重みと温もりがいつまで経っても消えてくれずに、顔色を確かめようと見つめた頬と唇の色まで甦って来たときにはさすがに途方に暮れた。


倉沢紗子が治験を受けてくれる事になった、その事実だけで十分のはずだ。


実際、新しい抑制剤を服用し始めてから、彼女の突発的発情トランスヒートの回数は格段に少なくなっているし、体調を崩してもいない。


その作用の何割かは間違いなく、市成に対する恋心によるブースター効果なのだろうが。


それでも、青白い彼女の頬に赤みがさして、俯くことが少なくなったという事実だけで、研究者として嬉しくなれた。


相変わらず裏方仕事がメインであることに変わりはないが、最近は積極的にフロア仕事を手伝うようになったらしく、図書館の妖精のあだ名はきっとすぐ必要なくなるだろう。


その場合、恐らく別のあだ名が付けられるのだろうけれど。


日陰の花を日向に移動させたのは、有栖川ではなくて、市成だ。


だから、あの笑顔は市成が受け取るのが相応しい。


とは、分かっているのに。


「・・・・・・なにが」


尋ね返した声は、勝手に低くなった。


有栖川の不穏な気配を感じ取った真尋が肩をすくめた。


「そのうち美男美女カップルっつって誉めそやされて、市成さんが本気になるかもよ?」


市成は、社内でも浮名を流しているオメガキラーである。


割り切ったお付き合いが出来る女の子限定でお持ち帰りしては一夜の甘い夢を与えて、本気なって縋った途端するりと逃げていなくなる。


恋愛慣れしていない女子が絶対に手を出してはいけない部類の男である。


「本気になるならそれでいいし・・・・・・倉沢さんもそこまで馬鹿じゃないでしょ」


あの見た目で恋愛経験皆無なわけはないだろうから、夢を叶えるか、夢から醒めるかは、本人次第だ。


傍観者のこちらに、それ以上出来ることは無い。


「馬鹿じゃないといいけど・・・・・・・・・お前さ、アレ見てなんも思わねぇの?」


市成の言葉に大げさな位頷いて、目を輝かせて相槌を打って。


どこから見ても恋する乙女の代表格だ。


「よく頑張るなぁ、とは思うよ」


タータンチェックのスカートから伸びる真っ白な足を包み込むのはヒール高めのレースアップシーズ。


あれさえも、彼と視線を少しでも合わせる為に選ばれたんだろうなと思ったら、見ていられなくなった。


これまでの引きこもりが嘘のように、色んなことに興味を持つようになった彼女の表情は、最初に会った時の数倍明るい。


その笑顔に惹かれる男は後を絶たないだろう。


ちょっと安売りしすぎじゃないの、と身勝手な感想が頭を過って、慌てて捕まえて閉じ込めて蓋をする。


研究者の立場に必要ない感情は、残さず排除しなくては、あの子の前で平静を装えない。


未だ本音を零さない有栖川に、真尋がげんなりを口を開いた。


「あの見た目であの反応だぞ?どう考えても経験値低いだろ」


雫とのヒアリングで、社会人になってから初めて職場で突発的発情トランスヒートを起こして、それを機に会社を辞めることになったと聞いている。


オメガ療養所コクーンを退院してからはずっと図書館と家を往復するだけの生活を送って来たらしい。


だから、最近は買い物に行くのが楽しくて、と嬉しそうに話していた彼女を思い出す。


恋愛経験値が高かろうが低かろうが、紗子が望まないことはしたくない。


彼女にとって市成は、唯一無二の運命のアルファなのだろうから、そのイメージを折り曲げて彼女を傷つけることはしたくなかった。


「・・・・・・・・・それで、俺にどうしろっていうの?」


「ぺろっと頂かれて、あの子が泣いてもいいなら、俺は別になんも言わんけどな」


去る者は追わず来る者は拒まずの市成なので、積極的に紗子が近づけば、そういう可能性もなくはない。


が、そうではない可能性もないとは言い切れないのだ。


「ぺろっと頂いて、市成さんが本気になるパターンもあるかもよ?」


あれだけの美人から熱心に好意を向けられたら、市成だって多少は本気になるのでは、と思ってしまったのだ。


それなら、有栖川が考えている事はそれこそ余計なお世話である。


「そうかねぇ・・・」


視線の先では、入館手続きに手間取っていた雫が、入館証を携えて戻って来たところだった。


メディカルセンターも研究所ラボも、とにかくセキュリティが厳しいので、事前申請は当然必須だし、手続き漏れがあると入館が叶わない。


「すみませんでした、お待たせしました!」


「いえ・・・大丈夫です・・・・・・あ、じゃあ、失礼します」


にこやかに市成に笑顔を向けた紗子が、雫と並んでこちらに歩いてくる。


「随分楽しそうに話してましたねー?」


「やっぱりメディカルセンターの方だから、突発的発情トランスヒートの対応も慣れてらっしゃるんですね、って話してたんです。皆さん研修を受けられてるんですね」


「あ、そうなんですよー。オメガの本格採用が始まった時に一斉に。だから、ここでは万一の状況が起こっても安心ですよ」


「ほんとによかったです・・・前に、図書館で突発的発情トランスヒートを起こしたことがあって、その時、市成さんが助けてくれたんです。親切に薬まで飲ませてくれて。部屋を暗くした方が楽になるよってアドバイスまで下さって・・・感動しました」


嬉しそうに頬を染める紗子の顔を凝視したまま、動けなくなった。


真尋が怪訝な顔を向けてくるが、返事が出来ない。


雫が立ち止まっている二人に気づいた。


「へーそんなことが・・・・・・あ、有栖川さんたち、こんなところでサボリですかー?」


「会議終わったとこなんだよ。倉沢さん、久しぶり。元気そうだね」


「はい。最近は調子良くて・・・この間は、私の分も出張のお土産ありがとうございました」


和やかに会話を続けながら歩き始めた三人をぼんやりと見送る。


あの日彼女は、市成が自分を助けたと思ったのだ。


そして、その彼に好意を抱いた。


あの服も、綺麗な唇も、みんなみんな市成のもの。


途端、自分の足が真っ黒な沼にはまり込んだような気がした。










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