第8話 primary6-1

まさか紗子があの市成にときめくなんて、思ってもみなかった。


お世辞にもオススメとは言い難い華やかなアルファは、親友には誠実な人と幸せになって貰いたい茜の理想の真逆を行くタイプである。


よりによってどうして市成なのか。


見た目も仕事ぶりも申し分ないというのは、真尋を通して聞いているけれど、彼は如何せん女性関係が派手過ぎるのだ。


割り切ったお付き合い限定でオメガとひと時の恋を楽しんでいるらしい市成の信者は社内外問わず存在しているらしい。


どうやら図書館で彼の毒牙にかかってしまったらしい紗子は、あれからずっと市成に夢中なのだ。


ふわふわと高揚した表情と浮足立った様子を見れば、久方ぶりの片思いに胸をときめかせていることは一目瞭然。


茜とてその気持ちは分からなくもない。


思いを伝えられても、伝えられなくても、大好きだと思える人がいるという事実だけで、心は躍るし軽くなるものだ。


ここ数年で一番明るい表情を取り戻した紗子は、生き生きと仕事に取り組んでおり、傍目にも分かるくらい元気になった。


相変わらず儚げな雰囲気はそのままだが、どこか恋する女っぽさが加わった彼女の魅力は天井知らずである。


ただでさえ美人の彼女が片思いでこんなに変貌を遂げるだなんて。


紗子が体調を崩さなくなったのは喜ばしいことだし、前にも増して積極的に仕事に取り組む様子を見ていると、嬉しくなる。


初めて紗子から洋服を買いに行きたいから付き合って欲しいと言われた時には、一瞬涙目になったくらいだ。


茜が買い物をするついでに、紗子に洋服を勧めることはあっても、紗子が自ら進んで自分を着飾ろうとしたことは一度もなかった。


どうせ会社と家の往復だけだから、とベーシックな組み合わせばかり選んでいた彼女は、茜がどれだけ勧めても明るい色の洋服を選ぼうとはしなかったのだ。


ところが、彼女から、気になっているブランドがあって、とメッセージ画面で共有されたのは、フェミニン系のアパレルブランドで、どれも女性らしい色合いの洋服ばかり。


恋をするとこうも人は変わるのかと、自分の変化よりも紗子の変化に驚いてしまった茜である。


とはいえ、オメガ性質であることに変わりは無いので、今回の気持ちの急上昇が逆に突発的発情トランスヒートを引き起こさないかとちょっと心配もしていた。


ストレスは突発的発情トランスヒートの原因のひとつとされているが、急な環境の変化などでも突発的発情トランスヒートは起こりうるのだ。


発情期ヒートの周期が安定していないトランスタイプのオメガである紗子は、とくに体調の変化をしっかりと見ておかなくてはならない。


無理は禁物なのだ。


真尋が日帰り出張の日に、たまたま治験の検診日が重なって、丸一日有休消化することにして、初めてメディカルセンターの研究者である西園寺雫を誘って、徒歩圏内にある小さな喫茶店椿亭で二人でランチを食べた。


同じオメガということもあって、以前から打ち解けてはいたのだが、茜と真尋の関係が変わったことでさらに色々と赤裸々な話をする事になって以来、年齢は違うけれど、友人のような感覚で付き合えている。


気を利かせた研究所ラボの室長が、時間気にしなくていいよ、と送り出してくれたおかげで、食後のデザートまで堪能してからメディカルセンターの前で仕事に戻る雫と別れて、気になっていた紗子の様子を見に行こうと決めた。


メッセージのやり取りは続けているものの、ここ最近は真尋がべったりと側にいるのでなかなか長電話も出来ないのだ。


茜としては遠慮せず話していたいのだが、側に真尋の気配を感じると気を遣った紗子が早々に電話を切り上げてしまうから、市成との出会いの詳細については詳しく訊けていなかった。


午前と午後に20分休憩が取れるので、そのタイミングを待って聞けるところまで紗子の話を聞くつもりで図書室にやって来たのだが、珍しくフロアで書架に返却本を戻している紗子を見つけて驚いた。


こんな風にカートを押してフロアを行き来する彼女を見るのは初めてかもしれない。


あれほど書庫から出ようとしなかったのに。


「大丈夫なの?紗子」


背表紙を確かめて、書架に本を戻していく紗子について回りながら、綺麗に化粧直しされた横顔を窺う。


昔から美人だなと思っていたけれど、最近は一気にあか抜けてしまった。


紗子が本気でアルファとの婚活に挑めば、落とせない相手はいないのではないだろうか。


これはもしかすると、市成も心を入れ替えて紗子に本気なるかもしれない。


もし、それが叶うなら、こんなに嬉しいことは無いのだけど、付き合った後から、昔の女性関係に悩まされる紗子を見たくないのもまた事実で、何とも複雑な気持ちになる。


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