第9話 primary6-2

「うん。最近ほんとに調子良くて・・・・・・だから、出来る仕事はどんどんやって行こうと思ってるの・・・これまで、みんなに甘えすぎてたところも多かったから・・・・・・もっと前向きにならなきゃと思って・・・・・・」


「それは嬉しいけど、一気に何でもやり過ぎるのは良くないよ?」


「なんかね、毎日楽しくって・・・・・・この性質が分かる前だってそんな風に思ったこと無かったのに・・・・・・・・・」


「市成効果すごいね・・・」


その相手が市成じゃなかったら、もっと手放しで喜べるのに。


もっと普通の、一途で誠実なアルファだったら。


茜の乾いた声の感想に、紗子が本を戻す手を止めてこちらを睨んできた。


綺麗にマスカラで覆われたつぶらな瞳がまっすぐ茜に向けられて、同性相手にもかかわらずドキドキしてしまう。


本当に、恋するオメガの威力は半端ない。


真尋の目にも、自分はこんな風に映っているんだろうか、と一瞬だけ考えて、いやでも付き合いが長いからな、とその考えを即座に打ち消した。


「ちょ・・・名前出さないで・・・・・・き、きっかけは、確かにそうだけど・・・・・・助けてくれる人がいるって分かったから、ちゃんと頑張りたいなって思ったのよ」


「これまでも紗子は頑張ってたよ。それを自分で認められなかっただけでしょ」


オメガの性質を受け入れて、社会復帰するのは決して楽ではない。


一生涯付き合っていく自分の身体と心を一人で守って生きていくのは、容易い事ではないのだ。


だからこそ、オメガにはアルファが必要なのだと思う。


紗子は、オメガ療養所コクーンに来た時も一人だった。


そして、退院してからもずっと身内を頼りにすることなく生きて来たのだ。


茜から無理やり距離を詰めて友達になっていなかったら、きっと今も紗子は一人ぼっちのままだったはずだ。


「・・・・・・・・・ありがと・・・」


「で、最近はちゃんと寝れてるの?」


「んー・・・・・・ドキドキして寝れない日もある」


「なにそれ!」


紗子の口から出たまるで女子高生のような発言に、思わず笑みがこぼれた。


ずっと茜は、紗子とこんな風にコイバナしてみたいと思っていたのだ。


「過度な期待をするつもりはないし、私なんて相手にされないことも分かってる。でもいいの。私が勝手に憧れてるだけだから。それでも、いまは十分なの」


「・・・・・・思い返して欲しいとは思わないんだ?」


「私、そういう経験ないから、全然実感湧かなくて」


途端、紗子がきゅっと苦しそうに眉根を寄せる。


学生時代の彼女の話や、社会人になってからの事はあまり聞いた事が無かった。


大抵のオメガがそうであるように、発情期ヒート前後の話題はしたがらないのが普通だ。


「勿体ない・・・・・・って、ごめん、勝手な事言っちゃっ・・・・・・・・・紗子!?」


話題を変えようと彼女に視線を戻せば、書架に手を掛けた紗子の表情が強張っている。


「・・・・・・っ・・・・・・ごめ・・・」


唇を震わせる紗子が、涙目でこちらを見つめ返して来た。


突発的発情トランスヒートだ。


慌てて紗子の身体を支えて、書庫までの動線を考える。


幸いここは2階図書室なので、茜一人でもどうにか紗子を支えて歩けるはずだ。


「薬持ってるよね?」


紗子に限って忘れて来ることは無いだろうと思いながら、万一の時には自分が持っている抑制剤を飲ませるしかないなとカバンに入れたポーチを思い出す。


と、その時。


「橘田さん、奥の部屋のドア開けてくれる?」


茜に代わって紗子の身体を抱きとめた男が、視線で書庫を示して来た。


「・・・有栖川さん!?え、なんで!?」


「いいから。彼女運ぶのが先でしょ・・・・・・抱えますよ?」


茜に指示をした後で、短く紗子に断りを入れて、有栖川が紗子の身体を横抱きにした。


確かに彼の言うとおりだ。


突発的発情トランスヒートを起こした紗子をこのままフロアに置いておくわけにはいかない。


「あ、はい!」


慌てて走って書庫のドアを開ける。


中に入った有栖川が、革張りのソファーに紗子を寝かせながら次の指示を出して来た。


「橘田さん、パソコン横のカバンの中からピルケース取ってくれる?」


「は、はい!」


考える間もなく言われたとおりに紗子のカバンから青いピルケースを取り出した。


それを受け取った有栖川が、中に入っているカプセルを紗子に差し出す。


「薬、飲めます?」


小さく頷いた紗子が、胸を押さえながらそれを飲み込んだ。


急いでペットボトルを開けて紗子に渡して水を飲ませてやる。


紗子の表情を窺いながら、有栖川が開け放たれた窓を指さした。


「カーテン閉めて、そのノートパソコン、画面向こうに向けてくれる?部屋暗い方が落ち着くから」


言われた通りカーテンを閉めて、ノートパソコンの向きを変えながら、あれ?と違和感に気づいた。


真尋と同じ研究者の有栖川なので、突発的発情トランスヒートに対する対処が適切なのは当然のことなのだが、どうしてこうも手慣れているのだろう。


挨拶程度しかしたことのない有栖川のプライベートはさっぱりわからないが、真尋のように身近にオメガの知人がいるのだろうか。


いくつもの疑問が浮かぶなか、視線の先では有栖川が神妙な面持ちで紗子の様子を伺っていた。

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