第7話 primary5

2階の書庫に籠っていると、大抵の雑音は聞こえなくなるのだが、この日は違った。


急に1階が賑やかになったなと思ったら、10分としないうちに磯上が書庫に顔を覗かせたのだ。


無事に子供がインフルエンザを完治させて、蔵書点検の3日前に帰還してくれた彼女のおかげで、スタッフ総出の蔵書点検は無事終了ばかりだ。


休んじゃった分バリバリ働くからね!と復帰初日に宣言した通り、蔵書点検の前後は紗子と一緒に最後まで残って準備と後片付けに追われた彼女は、やっと通常勤務に戻ったところだ。


どんなに残業が続いても溌溂とした笑顔を絶やさないパワフルな磯上は、まさに太陽のようで、こんな女性を母親に持てる子供たちが羨ましい。


「倉沢さーん、お疲れ様。いま忙しい?」


「いえ、大丈夫ですよ。どうされました?」


「良かったら、下降りてこない?」


頼み事をしに書庫を訪れる同僚は多いが、わざわざ開館中に一階に紗子を呼び寄せる人間は滅多にいない。


蔵書点検の後、何回かに分けてスタッフが交代で振替休日を取ることになっているため、今日もフロアの人員は少なめだったはずだ。


混雑して来たから、ヘルプに入って欲しいという依頼だろうか。


「返却本ですか?」


「あー違うのよ。そうじゃなくってね。メディカルセンターの市成さんが、差し入れ持って来てくださったのよ。蔵書点検の労いと、点検前に無理に市議の視察入れちゃったことへのお詫びで、沢山フルーツサンド買ってきてくださったから、無くなる前に食べに来て欲しいなと思って・・・種類も沢山あるから、選びたいでしょ?」


今裏でみんな交代で食べてるのよ、と楽しそうに伝えた磯上が、切口がお花になってて見た目もとにかく可愛くてねぇ、と詳細に語る内容が何一つ頭に入ってこない。


これまでも何度かメディカルセンターから差し入れが届けられることはあった。


が、わざわざ市成が持ってきたことは無かったはずだ。


いや、あったのかもしれないが、その時の紗子は市成の存在自体知らなかったので、スルーしてしまったのかもしれない。


居ても立っても居られなくて、自席から立ちあがる。


「あの、市成さんは、もう帰られたんですか?」


急に食いついてきた紗子に、磯上が目を白黒させた。


どうしていきなり紗子が市成のことを尋ねるのか、不思議で仕方ないという表情だ。


「え?市成さん?ええ、さっき図書室出ていったけど・・・あの、それよりフルーツサンド・・・」


「わ、私、ちょっとお礼言ってきます」


走れば間に合うかもしれない。


差し入れを持ってきたということはここまで車で来たのだろうから、最悪駐車場で捕まえられるはずだ。


あんなにフロアに出ることが怖かったのに、突発的発情トランスヒートのことはきれいさっぱり頭から抜け落ちていた。


ただ市成を呼び止めたいと、そればかりで気が急く。


「え、お礼!?」


急に書庫から駆け出していった紗子の背中に、磯上の驚いた声が聞こえたが、振り向く余裕なんてなかった。


階段を駆け下りて、そのままの勢いで一階のフロアを抜ける。


図書室ではお静かに、走らないでください、と張り紙のある掲示板を無視してロビーに出た。


すぐに自動ドアの向こうを確認して、スーツ姿の市成を見つける。


良かった、追い付くことが出来たようだ。


「いち・・・・・・っ」


思わず大声で呼びかけそうになって、思いのほかエントランスは声が響くことを思い出して、慌てて唇を引き結んだ。


図書館を出たところですぐに呼び止めれば十分間に合う。


飛び出してきて本当に良かった。


呼び止めて、あの日と、この間のお礼を言おうと心に決める。


この数日間で、何度もあの時の声を反芻して、突発的発情トランスヒートの紗子を助けてくれたのは市成で違いないという確信を持っていた。


こんな風に走ったのはいつ以来だろう。


誰かを呼び止めたくて必死に走れる自分に驚いて、そんな風になれた自分の変化に泣きそうになる。


茜は遠回しに市成に興味を持つのはやめた方がと伝えて来たけれど、親友の苦言なんていまの紗子の耳には届かない。


彼がどんな人だって、紗子にとってはあの日とこの間の彼がすべてだ。


だから、ちゃんと目を見てお礼を言いたい。


これまで胸で渦巻いていた恐怖心が一気に消え去って、湧き上がってくるのは高揚感とときめきだけ。


弾む鼓動は突発的発情トランスヒートのそれとは何もかも違っている。


自動ドアをくぐり抜けようとしたとき、ちょうど中に入って来た男性と肩がぶつかってしまった。


「っあ!」


勢いよく突撃したのは紗子のほうだ。


まさか図書館から誰かが駆け出してくるなんて思わなかったのだろう。


一瞬たたらを踏んだ男性が、紗子の肩を支えてくれる。


「すみません、大丈夫ですか?・・・・・・・・・」


一瞬紗子の顔を覗き込んだ彼が、驚いたように目を見張ったが、紗子の視線はもうすでに市成の背中しか見えていなかった。


「す、すみませんでした!」


彼からの問いかけには返事もせずに、その腕を撥ねつけるようにして駆け出す。


やはり市成は駐車場へ向かうようだった。


今度こそ大きく息を吸って、彼の名前を初めて呼んだ。


「市成さん!」


呼び止められた市成が、足を止めてゆっくりとこちらを振り向く。


全速力で走ったせいで、髪は乱れているし顔だって真っ赤だ。


けれど、それよりも彼の目の前に立っている事実に、胸がきゅうっとなった。


「・・・・・・・・・ああ、このあいだの・・・お疲れ様です」


紗子を見止めて目元を和ませた市成に向かって真っ先に頭に浮かんだ言葉を伝えた。


「あの、ありがとうございました!」


「え?ああ、いえ。蔵書点検お疲れ様でした。また本増えたから、大変だったでしょう?人手不足の忙しい時に視察まで入れてしまって、申し訳ありません」


「いえ・・・あの・・・その前も!」


紗子が伝えたいのは、今日の差し入れに対するお礼ではなくて、突発的発情トランスヒートを助けて貰ったことと、フロアで本を持ってくれたことに対するお礼だ。


息が上がったままそれだけ伝えると、市成がひょいと眉を持ち上げてきょとんとした後で、すぐに相好を崩した。


「ああ、あの時の。いえ、あれくらいのことでよければ、いくらでも。今日はお元気そうで良かったです」


前々回のコンディションは言わずもがな最悪最低、前回の時も決して体調は良くなかった。


ちゃんと紗子の顔色を覚えてくれていたことに舞い上がりそうになる。


この人は、周りが思っているほど軽薄ではない。


「は、はい・・・ありがとうございます・・・・・・」


恐縮しきってお礼を口にした紗子に、市成が人好きのする笑みを向けて来た。


意図したわけでは無いのだろうが、彼の華やかな雰囲気に飲み込まれてしまいそうになる。


普段から強めの抑制剤を飲んでいる紗子ですらクラクラするのだから、ほかのオメガはもっとうっとりしてしまうことだろう。


「わざわざ追いかけて来てくれるなんて、律儀ですね」


「そんな・・・・・・助けて頂いたんですから」


当然のことです、ときっぱり言い返せば、市成が眦を細める。


「・・・大袈裟だなぁ」


少しだけ照れたような顔を向けられて、心臓が跳ねた。


彼の視線の先に自分一人だけが立っている事実に、今更のように足が震えそうになる。


市成を見上げて息を詰める紗子の耳に、紗子を心配して追いかけて来たらしい磯上の声が聞こえて来た。


「倉沢さーん」


「あ、戻らなきゃ・・・・・・そ、それじゃあ、失礼します」


軽く頭を下げて踵を返した紗子に向かって、市成が声を掛けて来た。


「倉沢さん、無理せず仕事、頑張ってくださいね」


彼が自分の名前を呼んでくれたのだと思うと、それだけで飛び跳ねたいような気持ちになる。


今ならどんな無茶難題にも立ち向かえそうだ。


彼の言葉が耳元でリフレインする。


ふわふわとした気持ちで振り返ってお礼を言った。


「あ、ありがとうございます!」


この仕事しか、オメガの自分が生きていく道は無いのだから、精一杯勤めなくてはと今日まで必死にやって来た。


でも、今日からは違う。


彼が励ましの言葉をくれた、それだけで、この先ずっと走り続けられる気がした。


真っ赤な顔で図書館に戻って来た紗子に、磯上が驚いた声を上げた。


「やだ、ほんとに市成さんにお礼言いに行ったの?顔真っ赤じゃない!体調は大丈夫?」


「はい・・・・・・全然平気ですっ・・・あの、私の事呼んでくださってありがとうございました」


磯上が呼びかけてくれたから、市成に名前を呼んでもらうことが出来たのだ。


「何よそれ・・・・・・でも驚いたわー。倉沢さんて走れるのね。意外だったわー」


「私も、すっごく久々に走りました」


自分でも信じられないくらいのパワーが、身体の奥底から湧いてきた。


たぶん、それが、恋の力。


胸を渦巻く初めての感情に夢中になっていた紗子は、ロビーの片隅で市成と紗子のことをずっと見ていた別の人影があったことに、気付くことは無かった。









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