貸本屋は嘘をつく。

千羽稲穂

その貸本屋は嘘を愛している。

 貸本屋組合に入り、一年かそこら。わたしはある過ちを犯しました。当時のわたしはまだ若く、それがどんなに残酷なことかも知らずにいたのです。

 わたしは、女だてらに貸本屋を営み、いち貸本屋としてえいこらせっと江戸を駆け回っていました。てやんでぃ、と江戸っ子口調を横切り、寄り道にかりんとうを包んで、ある町家に訪ねていました。そこに行くとまずは、幼児が出迎えてくれます。彼女の肌はお嬢さんらしくはないこんがりとした柿色に近しい色をしており、髪は結わずに振り乱してました。年頃の幼児とは一見して異なっている上、お出迎えはいつもその幼児という、変わった町家でした。お土産にかりんとうを持って行くと、幼児はたいそうよろこび、「おっかちゃん、貸本屋」と廊下を駆けていきます。

 今も、まだあの光景が目に浮かびます。奥に入っていき、ふすまを開けますといつものごとく、息をのむのです。幽霊のような肌の白い女に。あまりにも儚く、今にもついえてしまいそうな風貌に、ふっとその灯火を吹き消しそうにもなりました。

「これはまた、お美しくなりましたね」

 わたしは精一杯の虚勢をはり、灯火に風がこぬように掌の内に秘めました。

「待ってましたよ、さあ、今日の本を。病と住まいを共にするのは、とっくに飽いています」

「病と結婚したと思えば、そう悪くはないでしょう。結婚生活など、飽いてしまうものと聞きますし」

 などと、軽口をたたきあう日々は楽しくありました。彼女はよくんでいました。笑うと咳き込んでしまい、身体をゆするほどの大きな喀血をしてしまうため、いけないと分かってはいましたが。それでも、彼女と年も性も同じとあっては、互いに気を許し、病など気にせず楽しきことを語りあっていました。

 貸本屋とあって、わたしは彼女の好きな本を知っていました。今日はこの本はどうでしょうか、と勧めた本を互いに感想を述べ合い、小一時間。あまりに長居をしてしまい、仕事にならないこともありました。

「貸本屋さんは、ほんまにまあ、ようわたしの選り好みを知っていますなあ」

 たまにまじる彼女の方言に、彼女のしたたかな性質を感じ、ほんのたまに、少しですが、胸が苦しくなりました。きゅーっとしまるこの胸の居心地など、どんな読本にものっておらず、未熟さを感じていました。

「しかも、他の貸本屋さんとはちゃう。言葉が江戸っ子じゃあらしまへん。ほんまにおかしな人だこと」

 ほほほと上品に笑う彼女に、またわたしの胸が高鳴ります。

「読本を読み過ぎていると、言葉がうつつに移ってしまうんです」

「そんな読まれるのなら、貸本屋さんも書いたらどうです」

「いえ、わたしは……」

 この話題になると、作家様方に恐れ多く、わたしはよくはぐらかしていました。今も、昔も、わたしは、物を書く器ではありませんでした。自分の言葉という物を持っていなかった。

 そうして、はぐらかし、この本などどうです、と出した本は、彼女の目を見開かせました。動悸が激しくなりながらも、次々に項をめくります。そして「嘘」と。なぜか、傷ついたようにも見えました。頬を赤らめて「嘘」と。項をめくるたびに「嘘」と。

「その作家さんは、最近で始めた作家さんで好くだろうなと思っていたのですが。もしかしてお気にめしませんでしたか?」

 「いえ、」と言葉をつかえて、「嘘」と単語をこぼすばかり。「ごめんなさい」ついには、布団を濡らし、「これは、その、違うのです」身体をゆすりながらも、嗚咽をこらえながらも、「貸本屋さん、この方は、もしや女性ではありませんか」と苦しげに訊いてきました。

 まさか、この時代に女流作家など居やしません。居たとしても隠します。女に書物などと言うものは。

 いやしかし、彼女は折れませんでした。それに、彼女には誠実でありたい、という思いも、もしかしたらあったのかもしれません。だから、ついつい罪を感じながらも作家さんの秘密を漏らしてしまったのです。

「ええ、これは秘密にしておいてほしいのですが、この方は西の出の女性作家さんでして」

「ああ、やはり。そう、そうなんですね。そう、そうならば、わたしは彼女のことを知っています」

 彼女は大切に項をめくり、指で文をなぞります。あまりに愛おしそうになでる人差し指に、つーっとわたしは視線を集中させてしまい、「彼女の出も、わたしの出も同じ。だから、あかせないのでしょうね」と彼女の言葉に暗く沈みます。わたしは雁首を差し出し、彼女の言葉に耳を傾けました。芸者をした仲に、書き物が上手い友がいたこと。いつか読本を届けることを夢に見て、幾年か。彼女は江戸の町家に嫁ぎ、彼女は芸者の道を突き通しました。そして何の巡り合わせか再会したのがこのときでした。

 わたしは、彼女のことなど何も知らなかった。知らない彼女の横顔には懐かしさが浮かんでは消え、現と夢を行き来します。

「あの子がいる」

 彼女は、それだけで、嬉しそうにしていました。

「忘れやしない。この文も、この言葉も、こも息づかいも」

 たったそれだけで、華やぐ。

 それだけで、わたしのような貸本屋はあると、そう思ったのです。

「あの子は、わたしのことを忘れていてもいい。こうしてまた巡り会えただけで、幸せです」

 

 しかし、言葉は決して万能ではありません。ときとして、現実に起こりうる事柄には無力です。

 彼女の病が急変したのは、それからひと月も経ちはしないときでした。わたしが貸本をいつものごとくとりに行ったとき、屋敷の空気がいつもと違っていました。どたばたと廊下を女中が行き来しています。町家は閉じ、彼女のふすまへと何人も入っていきました。わたしの背後から、老医が訪れ、案内を受けて入っていきます。貸本屋など取り次ぐ場ではありませんでしたので、機転を利かせ、労医とともにそっと屋敷に上がりました。さも、労医の付き添いであるように。客人がひとり多いなどと、言っている隙もなかったのでしょう。

 老医が彼女を診て、「今晩が佳境かもしれぬ」と。彼女の咳が辺り一面に響いており、とりわけわたしの耳は苦しそうな息づかいを捉えていました。労医の言付けにより、一層屋敷の空気はどんよりと暗くなっていきます。心なしか天気まで悪くなり、曇り空からぽつん、と涙が降り注ぎました。

 わたしは、そこで貸本の一冊をとりだしてしまいました。彼女の友人が書いた読本、その続巻です。

 芸者をしているということもあり、物語も芸者の話でありました。ただ物語は芸事を極めるものでございました。一つの物事を真摯に貫くさまには胸をつくものがありましたが、彼女という友人のことを忘れ、ただひたすらに猛進していく姿のみしか映し出されていなかったのです。

 だから、物語の最後に彼女のことを書き加えました。芸事にいそしんだ果てに、ある一人の少女と出会います。それが彼女です。口癖の描写をし、物語の息づかいや、文章を真似て一気に書き切ります。自身で誇るのもなんですが上手く書けたと思いました。

 周囲をみると廊下の端で蹲っている、彼女幼児がいました。いつもの溌剌な笑みはなく、柿色の肌もくすんでいました。今にも泣き出しそうな声で「貸本屋」とわたしを呼びます。

「おっかさん、死ぬん?」

 答えられませんでした。

 だけれど、せめてもの手向けに、と。

「これ、おっかさんに渡してくれますか。前の本の続きなんです」

「あの本、おっかさんが何度も読み返して、とても気に入っている本の」

 頼みましたよ、と子どもの頭をなでてやりました。

「また、本を返してもらうために伺います。そのときまで必ず待っていてくださいと伝えてください」

 それから、居る場を間違えぬよう屋敷を後にしました。重い書架を背負っている貸本屋という業は、人の生に触れることなどあまりありません。むしろ、このとき背負ってしまったからこそでしょうか。その日の貸本業は身が入りませんでした。あの本を受け取ってもらえただろうか。彼女は今生きているだろうか。一刻すら心は安まりません。そして、わたしは気づきました。貸本屋は物語の人生を背負うことは耐えられますが、作家のように心を背負うなどできないのです。目の前の人が、どんな姿で文字を読み、どんな表情をしてわたしの文を評するのか、気になってしかたなくなるから。しかも、病床の彼女は、今まさに死期を彷徨っている。どうすることもできません。

 ですので、次の日には耐えきれず、二日続けて訪ねることにしたのです。


 あの日の記憶は、いつも玄関先で本を投げつけられるところから始まっています。

「嘘つき」

 いつものように出迎えてくれた彼女の娘が牙を剥き、ののしりました。投げつけられた本を拾って、項をめくります。最後のページに今後の展開である、わたしが書き加えたシーンがあるはず。

「おっかさんは、持ちこたえた。でも、これは違う」

 開けた項はズタズタに引き裂かれていました。ちょうどわたしが書き加えられた箇所が見えません。読本自体よれて、くたくたになっています。

「おっかさんは、知ってる。この作家の書き方を。言ってた。『これは貸本屋の文章やわ。あの子は一人で貫く強さを語る人やから、違うわ』って。文のくぎりの位置も、使う言葉も、てんかいも違う」

 彼女は持ちこたえた、という事実が後になってじわじわと浸食してきて、すぐに病床の友人に対してなんということをしてしまったのだろうか、と思い直します。

「おっかさんが、とってもたいせつにしているひとの本をゆがめた。どれだけ、これが、いけないことか」

 彼女の友人が、彼女を忘れていることが許せなかった。それはあまりにも悲しいこと。

 それに、ひと晩だけの夢を見せてあげようと思ってしまった。死にゆく彼女の灯火を消させないために。 

 いや、そうではありません。

 どれも体のいい言い訳です。

 わたしは彼女への好意のために、彼女の友人を、彼女自身を侮辱する行為をしてしまったのです。あのとき、わたしは、胸をしめつける感情に身を任せてしまった。言い訳という嘘を盾にしたところで卑しい心根があることに変わりはありません。

 書けないわたしは知っているはずでした。作家さんが、一文にどれほどの気持ちを注いでいるか。知っているにもかかわらず一刻忘れてしまった。そして一端の作家のように、読んだ彼女の顔が見たいなどと、病に伏せる彼女を置いて一日中考えていたのです。

「もう二度と来るな」

 投げつけられた言葉には、納得の余地しかありません。

 すぐにでもわたしの首を絞め、断罪してほしかった。彼女の娘になら、殺されることもいとわなかった。しかし、ほとんどの人は生を授けることには寛容であるのと同様、彼女の子もこの世にわたしを野放しにしました。

 何も言えずに彼女の友人の本を書架に加えて、一冊分重くなった棚を背負い込み、町家を出て行きました。彼女の娘の怒りの息づかいが背中を覆い被さり重苦しく、いつもより足取りもおぼつきません。

 それからしばらくして、町家の彼女が亡くなったことを噂伝に聞きました。


 あれから数年、数十年、わたしの手がしわくちゃになるまで経ちました。淡い若さを湛える心は、今にしてみるとおろかでなりません。あの頃を思い出すと、胸が締め付けられます。

 貸本に対し罪悪を抱いたわたしは、貸本業に精をだし、狂ったようにあらゆる人に貸本をしました。江戸の端から端を駆け回り、本を授けていき、そしてぽっきりと腰をいわせました。足腰は強い方だと思ってはいたのですが、気づけばわたしは妙齢の女性。身体のひとつやふたつ、不具合もでましょう。縁談話も出ましたが、全て断りました。

 時代も移りゆき、江戸の街も様変わりしました。ちらほらと外人さんの姿や、欧米のふぁっしょんを取り入れた服を着た人も見られるようになりました。貸本組合は未だ存在はしていましたが、書店と形を変え、店を構えるようになる人もいました。わたしもその一人です。余生は、書店に居座り、ゆっくりと過ごす予定です。

「もし、あなたは貸本屋をされていませんでしたか」

 書店でうつらうつらとしていたとき、誰かが訊いてきました。はっと、顔をあげると、洋服のわんぴーすに身を包んだ柿色の肌の女性が立っていました。黒く柔らかい長髪は結わえずに後ろに垂らしていました。

 どこかで出会ったことがあるような。

「確かに、わたしは過去に貸本屋をしておりました」

「ええ、知っています。意地悪をしてしまい、すみません。ようやく会えました。探してたんです。あれから数十年、わたしは忘れていません。あなたのことを、あなたの声を、あなたの呼吸を、あなたの姿を。どれほど、時が経とうと、瞳の色だけは澄んだ鳶色をしている」

 その口ぶりは、病弱な彼女を思い出すようで、あの日の記憶が蘇ります。どれほど遠くに居ようが、文章で友人を見つけた彼女のように、細かい部分までを言い当てていくのは、まさに。

「お礼を言いたくて。おっかさんのこと覚えているか分からないけれど」

 わたしは言葉をなくして、彼女を見つめました。溌剌と言葉を紡ぎます。

「『貸本屋』さん。あのときは追い返してしまい、申し訳ございませんでした。でも、病床の母の言葉を聞いて、どうしても怒りを抑えられなかったのです。これは違う、と。あの本を大変気に入っていたので。子どもながらに早とちりしてしまったのです」

 いいえ、わたしも若かった。年端もいかない女性の前で涙を流す年齢でもありません。ぐっとこらえて、まっすぐな彼女の姿勢を目を細めて見つめました。

「おっかさんは、確かに、あなたが書き加えたということを知っていました。病床に伏した中で最後に、と苦しくも本を手に取っていた。顔をしかめながらも、あなたの書いた項を捲って、引きちぎるくらい握りしめた。その項を最後まで大切にもっていた。

 あなたの嘘は許されません。少なくとも母の友人をなじるものでしたし、決してしてはいけない悪いことです。

 でも、あなたの嘘が、母は嬉しかった。あなたの書いたものが、あなたの母を想う気持ちが、とてつもなく嬉しくてたまらず、最期の最期まであなたのことを想っていたのです。

 母はあなたの嘘を愛していました。

 最後まで手放さなかった項は、棺に入れ、一緒に焼きました。きっとあの世でも、あの項を繰り返し読んでいるはずです」

 では、と彼女は黒い髪をばさっと垂らして、書店をあっというまに出ていきました。あの頃と変わらない台風のような襲来に、言葉も心も追いつきません。

 放心状態のまま、おもむろに棚にたてかけられたくたくたの読本を眺めました。一向に貸し出されぬその本を。近くにより、手に取って項を捲ります。ずたずたにされた項はわたしの書いた部分です。

 芸者が親友と出会う部分。あの部分の空想にわたしはそっと近づきます。芸者と病弱な彼女が楽しそうに笑っている中に、「貸本屋です」と。「今日は何の本をおすすめしてくれるん?」芸者はわたしに尋ねて、「実は持ってくるのを忘れて」と軽口を叩くのです。病弱な彼女は思いっきり笑っていました。彼女の笑い声をわたしは久しぶりに聞きました。

「新巻を持ってきました」

 店先に女性が立っていました。彼女は芸者の簪をたずさえ、紅をさしていました。妙に雰囲気のある彼女に、「待っていました」と出迎えました。くたくたの本を棚に戻すと、同題名の本が一冊、二冊とずらりと並べられています。

「また、あの本を見てはったんですか?」

 まあまあ、とわたしははぐらかすので、はあ、と彼女はため息をついて、本を渡しました。

「そんなに本が好きやったら自分でも書いたらどないです?」

 受け取って、続巻の項をめくります。いつもながらの素敵な物語です。芸者の初志貫徹した姿は幾年立っても変わらず、美しい。

「実は、一度だけ書いたことがあるのです」

「はて、そんなこと、この数十年、一回も言ったことなかったやないです。嘘つかはったん?」

 わたしは瞼を閉じて、思い起こします。

 ほら。

「作家は、嘘つきですから」

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貸本屋は嘘をつく。 千羽稲穂 @inaho_rice

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