果ての本屋の果て

歩弥丸

果ての本屋の果て

『ここが世界の果てだ』

 その古びた本には、書き出しにそう書かれていた。


 僕はこの日、ふらっと旅に出た。深い理由は無い。ただ疲れたので気分転換したいだけだった。在来線特急で三時間、そこからコミュニティバスに乗り換えて一時間、山奥の温泉地に来て地図アプリを立ち上げると、『山野古書店』という表示が温泉地のそのまた外れに目に付いた。

 実際それは温泉地から更に一時間は歩く場所にあって、集落からも外れていて、『どうしてこんなところに古本屋が?』と呟かずにはいられない場所だったのだけど、まあネット販売や副業で成り立ってるのかも知れない。

 店内は意外に品揃え豊富だった。最近の文庫本、児童書、ラノベから、明治大正の雑誌、和綴じの典籍まで。悪く言えば節操が無い感じもする。

 そんな中で目を引いたのが、タイトルも何も書かれていない、皮装の本だった。


「御主人、これは?」

 古民家めいて黒光りする柱に、店主が寄りかかっている。呼びかけると店主が振り向いた。

「ああこれはね、私が若い頃に買ったもんだよ。謂れは私も知らん」

 店主はコーヒーカップをカウンターの脇に置いて言った。だいぶ皺びた手だ。若い頃というならバブル時代か、それより前か。

「若い頃に? それを売り物の棚に?」

「もう充分読んだから、別に誰かが買うならそれはそれでいいかなと思ってね」

 もう数ページ捲ってみた。旅行記のように見えた。


「その頃はまだ世間にカネがあって、なんかこう何とかなるやって空気でね、私も就職とか蹴飛ばして取りあえず当てもなく旅に出たんだよ。バックパッカー、って言うんだっけ」

 語り手は国を捨てて身一つで旅に出る。世間の何もかもが厭になり、どこかにあるであろう理想の地を探しに行く。


「まず東南アジアに行ったねえ。あの頃インドシナ半島は物騒でね、戦争やってたんだよ。カンボジア内戦、知ってる?」

「――知識としては」

「仏教遺跡を見たかったんだけどそれどころじゃなくてね、まあ現地のひとと仲良くなりながら何とか通り抜けたけど、ありゃあ一歩間違ったら地雷を踏んであの世行きだったよ」

 ――始めに行ったのは戦場だった。国内の啀み合いと隣国の思惑とが重なって、殺し合いの続く地だった。『ここには聖地がある』と聞いてきたのに、聖地に踏み入るどころではない。


「その足でインドに入ったんだ」

「タイじゃなくて?」

「なんか成り行きでビルマ……ああ今はミャンマーか。そっちの方向に抜けちゃったんで、だったらガンジス川かな、って。確かにインダス川は日本じゃ見られないスケールだし、ガンジス川は雄大だし、山も土地も兎に角デカい。ただ、あの頃のインドはカースト制……差別が生きててね。今はどうか知らないけど。ゴミ拾いの家に生まれたら一生ゴミ拾いなんだよ。ゴミ拾いのひとの薄笑いが忘れられなくてね」

 ――次に行ったのは荒野だった。いや、人心の荒野だった。人は多く活気に満ちていたが、そこでは常に上の者が下の者を虐げていた。『ここには聖地がある』と聞いてきたのに、聖地の面影は感じられなかった。


「で、バスと徒歩を繰り返してパキスタン経由でイランに入ったわけ」

「――その頃のイランってそれこそイラクと戦争してる頃では?」

「鋭いね。なんかイランに油田の権利を持ってるナントカって会社があってさ、ほら『海賊――』ってそこにも最近出た小説があるだろ。現地の言葉のわかる日本人を募集してたから暫くそこにいたんだ」

「バックパッカーだったのでは?」

「カネが無くなりゃバックパッカーだって働くし、割と融通の利く時代だったんだよ。パキスタン通り抜けたからペルシャ語多少かじっちゃったからさ。まあおっかない土地だったよ。いつイラクがミサイル撃ってくるかわからない、イスラエルがこの戦争に介入したら第六次中東戦争かも知れない、そもそもイラン革命の経緯でアメリカは不倶戴天の敵ときた、そんな中でホメイニ師の警察が『酒やってないか』『顔出してる女はいないか』と見張って歩く。まあそれでもビクビクしながらこっそり酒飲んだりしてたけどね?」

 ――次に行ったのは暴政の地だった。法王は教えを盾に人々を統制し、また周囲の諸国は全て敵。人々は全てに脅えていた。『ここには聖地がある』と聞いてきたのに、ここは地獄だった。


「カネが溜まったらトンズラして、トルコ側からシリアに入って、そこからエルサレムを目指したのさ」

「遠回りですね?」

「流石にイランからイラクに行ける時期じゃ無かったよ。シリアはその頃は独裁下だけど安定してたしね。ただ、レバノンまで来て後悔したよ。レバノンら辺にはパレスチナ人の組織が潜伏してて、イスラエルに抵抗運動してたわけ。日本人の過激派が何故か混ざったりもしてさ。で、それらを根絶やしにしようとしてイスラエルがレバノンにミサイル撃つのさ。どっちが正しいとか間違ってるとか言う気は無いけど、がれきの下から手が見えたりするのさ」

 ――次に行ったのは聖地だった、いや戦場だった。『この聖地は我々の土地だ』と、聖地そのものを奪い合う戦場で、時には聖地の外れの部族が巻き込まれて苦しんでいた。『ここには聖地がある』と聞いてきたのに、そこは修羅の地だった。


「なんかね、がれき掘り起こすのを手伝いながら、もう旅はいいや、って思ったときにね、レバノンの人がくれたのがその本だよ」

「って日本語じゃ無いですか!」

「そりゃそうだよ。そのひとも『ちょっと前に日本人から貰った。読めないがあんたは読めるだろうからやる』って言ってたんだから」

 ――そこに本があった。言葉があった。ここが聖地で無くても地獄でも、人は居て言葉はある。

 ――どこに私が居ようとも、ここが世界の果てだ。


「ここが、世界の果て――」

 僕が本の書き終わりを呟くと、主人が一言付け足した。

「買うかね? 君はどんな世界の果てを見に行く?」

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