第三部 第一章「戦端再び」

第80話「うたかたの平和」

 金髪碧眼の見目麗しいエルフであるシルフィーは、エプロン姿で楽しそうに料理していた。

 作っているのはお菓子だ。お屋敷の台所に、甘い香りが立ち込めている。


 昔のように金銀と同じぐらい高価ということはないが、このローミリス大陸ではお砂糖はまだ貴重である。

 その貴重なお砂糖を鍋で煮詰めて、とろーりとろーりと甘い甘いキャラメルソースを作る。


 もう一つの鍋で作っているのはビターな味のチョコレートだ。

 こちらも、神々の食べ物と呼ばれるほど貴重な南方からの輸入品である。


 シルフィーたちエルフにとって、解放者である軍師ハルトはまさに神にも等しいお方。

 さっくりとしたクッキーにたっぷりのキャラメルソースとチョコレートを挟んで、大事な神様に捧げる供物を作り終えるとシルフィーはハルトの元へと足を運んだ。


「ハルト様、キャラメルクッキーが焼き上がりました」


 光に照らされた窓際で、シルフィーの神様は静かに本を読んでいた。

 ハルトの黒曜石のように輝く眼差しが、エプロン姿の自分を見ていると思うだけでシルフィーは身が引き締まる思いだった。


 英雄であるハルトに仕えることができる自分に、シルフィーは深い喜びを感じる。

 亜人の解放者、アリキアの王、救国の英雄。


 様々な栄冠を与えられ、すでに辺境伯ともなったハルトは、本来ならばもっと豪奢な暮らしもできる。

 それなのに、王国北方軍のルクレティア将軍の軍師としてこのノルト大要塞にある小さな屋敷で、読書と思索の日々を送っている。


 本当の気高さというものは、こういうものなのだとシルフィーは思う。


「ありがとう。ちょうどお茶請けが欲しいと思っていたところなんだ」


 お茶請けといいながら、ハルトがいつも飲んでいるのは砂糖も入れていない苦いブラックコーヒーだ。

 その大人の味がシルフィーにはまだわからないのだが、なんとか理解したいとこっそり真似して飲んでいるところだ。


「ハルト様、食べさせて差し上げますね」


 ハルトは本を持っているので、そうしたほうがいいだろうとシルフィーは思わず言ってしまった。


「いや、自分で食べるからいいよ」

「し、失礼いたしました!  わっわっわっ、私ごときが出すぎた真似を……」


 慌てて菓子のお盆を置いて、シルフィーは青い顔でその場にひざまずく。

 困った顔で少し迷ったハルトはこういう。


「いや、うーん、わかりました。じゃあ、お願いしましょうか」


 シルフィーは自信を失っているし、せっかく自分から言い出した提案を断るのはまずかったとハルトは思ったのだ。

 食べさせてもらうのは少し恥ずかしいが、周りに誰もいないからいいだろう。


「はい!」


 嬉しそうにクッキーを一つ摘み、ハルトの口元へと運ぶシルフィー。

 あーんとしながら、口に放り込まれたキャラメルクッキーをハルトが味わっていると、突然後ろから声が聞こえた。


「ハルト様」


 ハルトの忠実なる副官エリーゼの声だった。


「ケホケホッ……」

「あわわ、ハルト様。お水です!」


 咳き込んだハルトに、慌ててお水を渡すシルフィー。


「あ、ありがとう。あとエリーゼ、気配を殺して近づくのは止めてくれませんか」


 栗毛色の髪でメイド服姿の少女、エリーゼは申し訳ありませんと頭を下げる。

 その動作には一分の隙もない。


 もともと騎士の訓練を受けてるせいか、最近メイドを通り越して行動が忍者めいているなとハルトは思う。


「驚かせてしまい失礼しました。しかし、その不埒ふらちなたわわ……いえ、エルフを御身にあまり近づけるのはどうかと」


 そう言いながら、そんなエルフの水よりこっちを飲んでと、淹れてきたコーヒーのおかわりを差し出す。


「シルフィーも、よくやってくれてますけどね」


 ハルトは苦笑しながら、甘いクッキーとコーヒーのおかわりを交互にいただく。

 うん、やはり両方あったほうがいい。


「だいたい、お菓子を手ずからハルト様に食べさせるなど羨まし……ではなく、不衛生ではありませんか」

「そんな! ちゃんと私は、ハルト様からいただいた石鹸で手をしっかり洗ってます!」


 いやいやとシルフィーが身体を振るうせいで、巨大な乳房がぷるんぷるん震える。

 それを見て、エリーゼの眉がますます険しくなっていく。


 ぶつかり合う二人に、ハルトはやれやれと頭をかいた。

 この街にも衛生観念が広まっていて何よりだが、女の子が争っているのはどうも苦手だ。


「それよりエリーゼ。何か報告があってきたのではないですか」


 エリーゼが紙束を持ってきていたので、話をそらそうとハルトは真面目な口調で尋ねる。


「そうでした。ベリル商会が、ハルト様の傘下に入りました」

「おお、そうですか」


 ベリル商会は、王国南部最大の港湾都市ナントでも最大の商会である。

 これで、商都ナントの経済はハルト商会が牛耳ぎゅうじったと言っていい。


 まず、商都ナントの行政権をハルトの主君であるルクレティアが握っている。

 そしてさらにハルト商会の傘下に入れば、ハルトが王より与えられた免税特権が使えるのだ。


 免税特権があれば、儲かってる商会ほど大きな利益を出すことができる。

 そして、ルティアーナ王国で免税特権を持っているのは、ハルト商会とミリス教会だけなのだ。凄まじい利権と言えた。


 放っておいても、有力な商人たちが向こうから頭を下げてすり寄ってくる。

 傘下の商会を取りまとめるだけで、ハルトの手元には莫大な富が転がり込んでくるのだから笑いが止まらない。


「ハルト様の領地であるアリキア辺境伯領で計画中の、製材所や製鉄所の建設にもぜひ出資させていただきたいとのことです。船舶の材料は、いくらでも欲しいとのことでした」

「それはありがたい」


 ハルトの口元に、深い笑みが浮かぶ。

 今は切り出した丸太のままでナントの街の商会に売っているが、製材所や製鉄所ができればそのうちに造船所も作って、自前で大船団を作って儲けるのもいいかもしれない。


 資源が豊かなアリキアが大きな貿易もせず放置されていたのは、前の支配者であるダルトン代官が軍事はともかくとしても、経済がまったくわかっていなかったためだ。

 ダルトン代官がどういう金策をしていたのか聞いてみたら、獣人やエルフたちに、せっせと琥珀を拾わせて売っていたと聞いたので失笑してしまった。


 自分の目の前に、豊かなドワーフの鉱山やエルフの森という木材資源という宝の山が転がっていたというのに、琥珀にしか目がいっていなかったのは愚かという他ない。


「まあ、そのおかげで儲けさせてもらえるんですけどね」


 アリキアという広大な領地が手に入ったおかげで、儲けのアイデアはいくらでも試すことができる。

 次は何をやって稼ごうかと、ハルトは含み笑いする。


「あと、南部の商人に売り払われた王家の宝は、かなりの部分を傘下に収めた商人から回収できました。なかでもこの世に二つと無い、この星紅玉の指輪ステウラ・ルベウスは、ルクレティア殿下が次期女王の格を示すために重要な品かと」

「これは見事ですね」


 エリーゼがハルトに差し出したのは、大粒のルビーの指輪だった。

 宝石の中でもルビーは、はるか南方の島でしか取れず、最高級の宝石として珍重されている品だという。


 他にも買い戻した品々はさすがは王家の宝と言ったところで、豪華絢爛な宝物が目白押しだということだ。

 みんな貴重な品ばかりなので、散逸する前に密かに買い戻しを命じていたのだ。


「残りの宝物は、馬車に積んであります。他にも思わず手が伸びそうになるほどの美しい宝物がたくさんあります。ご覧になられますか」


 王家の宝の目録をひと目見たハルトは、頭を左右に振る。


「その必要はありません。取り返したなら、さっさと姫様に返してあげることにしましょう」


 それを聞いて、シルフィーは「なんと無欲な!」と祈るように両手を組んで、瑠璃色の瞳を輝かせている。

 実際は無欲でもなんでもなく、貴重な書物や芸術品ならばハルトも多少興味があるが、宝石にはあまり関心がないだけだ。


 ハルトの権力は、君主であるルクレティアが支えている部分もあるので、機嫌を取るために使ったほうがいい。

 王国の内政改革の模範を示すために王家の宝物を売り払わせて、それをハルトが傘下の商会から取り戻すのだからとんだマッチポンプだと苦笑してしまうが、それで恩を売れるのだから悪くない話だろう。


「あともう一つご報告がございます。領地の軍団編制が完了いたしましたので、ぜひハルト様も閲兵式に来てくれとのことです」

「そうですか。では、久しぶりに領地を見に行くことにしましょうか」


 蓄財をしても、それを守るための武力がなければ話にならない。

 帝国との新たな戦争も予想される。


 もう以前のように、戦いは避けたいと言っている場合ではなくなったのだ。

 こちらが新兵器の威力を見せてしまった以上、敵はそれを上回る戦力を用意していると考えたほうが良いだろう。


 そのためにハルトは、辺境伯の持つ軍権を最大限に利用して独自の軍団を編制したのだった。


「では、その前にルクレティア姫様のところにご機嫌伺いにでもいきますか」

「はい。私もお供いたします」


 向こうから尋ねてくることは多いが、そう言えばこちらからルクレティアの住む領主の館に行くのは久しぶりだなとハルトは思うのだった。

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