お一人様五冊限り

oxygendes

第1話

 書店員の書いた記事を読んだことがある。書店員は客が店に入ってきた時、その客が本を買うかどうかが一目で分かるのだそうだ。それを読んで、そうかもしれないなと思う部分があった。自分自身、欲しい本があってそれを買いに行く場合と時間つぶしのために入る場合がはっきり分かれているように思えたのだ。多分、目的の違いによって視線の動きとか足取りとかが変わって来て、それが書店員には分かるのではないだろうか。


「すみません」

 その男に話しかけられたのは、まさに時間つぶしのために本屋に入ろうとしていた時だった。取引先を訪問する約束の時間まで三十分あり、その間にすることが何も無かったのだ。

「この本屋にお入りになるのですか?」

 男はグレーのパーカーを着て、大きなマスクで顔の半分以上を覆っていた。わずかに覗く皺の刻まれた目元から五十代くらいに見えた。

「はあ」

 男の意図が分からず、俺はあいまいに答えた。

「買うべき本を決めておられる?」

「いや、特には……」

 俺の答えに男はマスクから覗くわずかな部分の相好を崩し、縋りつくような表情になった。

「よかった。是非お願いしたいことがあるのです」

 一度俺の目を見つめてから視線を本屋の入り口に移し、ガラス戸の張り紙を指さした。それには『閉店セール 全冊三割引き ただし、お一人様五冊限り』と書いてあった。

「私の代わりに本を買って来ていただけないでしょうか?」


 突然の申し出に戸惑っていると、男は猛然と説明を始めた。

「不審に思われるのはごもっともです。でも、この本屋は、この本屋だけは特別なのです」

 両手を胸の前で組み、ぎゅっと握りしめている。

「これまで入ったことのない店でした。でも、今日あの張り紙を見て入ってみると……、とんでもない店だったのです」

 声が次第に大きくなってきた。

「あなたは学生時代に熱中して読んだお気に入りの本はありませんでしたか? 私はあるんです。そう、何十回、何百回も繰り返して読んだ本たちです。とても大切な本でした。でも……、やがて就職、結婚し、何度も転勤して引っ越しを繰り返しているうちにどこかで無くしてしまったのです。失ったことにも気付かないまま」

 男は大きく息をつき、肩を落とした。

「でも、その本たちがこの店にはあったのです。それも何十冊もが。懐かしさで涙が出そうになりました。すぐに手に取り、買おうとしたのですが、そこであの張り紙を思い出しました。買えるのは一人五冊までだったのです。私は店主に交渉しました。定価、いや定価の倍を出すから欲しい本を全て売ってくれないかと。でも。店主は頑なでした。五冊しか売らないと言うのです。仕方がありません。私は苦悶の末に五冊を選び、それを買いました。でも、店を出たとたんに後悔しました。この五冊よりもっと大切な本があったじゃないかと。でももう買い直すことはできません。そこで私は考えました。一人五冊と言うのなら、誰か別の人に買ってもらえばいいではないかと。そこで店の横で、誰か店に入らないかと待っていたのです」

 男に縋りつくような目で見つめられ、俺は少し可哀そうになった。

「まあ、いいですよ。特に欲しい本があった訳ではないので」

 俺の言葉に男は目を輝かせた。

「有難うございます。それでは……」

 男はポケットから手帳を取り出し、一心に書き込み始めた。そして、書き終えるとページを破って俺に渡して来た。

「この五冊をお願いします。書名と著者、そして並べてあった棚の位置です」

「ああ、わかった」

 書名は聞いたことのない物が並んでいた。

「これが何百回も読んだと言う本なんだよね」

「ええ、最後の一冊以外はそうです」

 一冊以外? 首を傾げた俺に男は説明して来た。

「それは私の大好きな作家の単行本の一冊です。その作家の単行本は全て揃えました。でも、読み進めるうちに思ったのです。作品を初めて読む時のときめきが無くなるのは悲しいことだと。そして一冊はあえて読まないことに決めました。それを読むのは人生の最期を迎える日のことにしようと」

 正直、俺には男の気持ちはわからなかった。だが、一度引き受けたことなので四の五の言うつもりは無かった。男は俺に本を買うための金を渡そうとしたが、俺は断り、後で実費を受け取ることにした。金を預かるのは心理的な負担になるような気がしたのだ。大仰にお辞儀をする男を残し、俺は本屋に入った。


「いらっしゃい」

 入口の近くの0レジカウンターから店主らしい男が挨拶して来た。ずんぐりした体形でゴマ塩の短髪に三角定規のような眉毛をしていた。店は分野別の棚に本が並ぶありふれた作りのように見えた。

 俺は男のメモを見ながら本を探していった。


 一冊目は美術関係の本が並ぶ棚にあった。正方形に近い判型でイラストが描かれた表紙、そのイラストはショートショートの本の挿絵で見覚えがあった。本はそのイラストレイターによる奇想天外な発明の図解と解説だった。意表を突く発想とスタイリッシュな構図に目を奪われた。


 二冊目は文庫本だった。表紙は青い宇宙をバックに長い髪とすらりとした手足の女性が描かれている。ぱらぱらとめくるとアウトローの青年と宇宙生物の辺境での遭遇の物語のようだった。たどたどしい言葉で語る宇宙生物を愛おしく感じた。


 三冊目は大判の薄い本、表紙はこちらを見つめる切れ長の目の女性だった。季刊のアニメーション雑誌のバックナンバーとのこと。アニメーションが好きすぎて私財のあらかたを投じてTVアニメ作りに邁進する漫画家の記事が印象的だった。


 四冊目は文芸書の棚にあった。道場主を名乗る作家による、作家志望者から寄せられた作品への批評と創作に向けてのアドバイスが集められていた。志望者のほとんどが中学生から二十代までの若い女性であることが印象的だった。


 五冊目は小説の単行本。青い地の表紙に小さな星に横向きに座る女性が描かれていた。あえて読まなかった一冊と言うことで俺もページを開かなかった。表紙に書かれた作家名はどこかで聞いた覚えがあった。古書店の主人と店員の恋と謎解きを描いたドラマの中で、だったかもしれない。


 五冊を揃え、レジに向かおうとした俺は、ふと目を留めた一冊の本の背表紙にくぎ付けになった。そう、俺にもあったのだ。昔、熱心に読み、心を動かされた本が。なんで忘れていたのだろう。

 それは不死の呪いをかけられた女性と身寄りのない少年の時空を超えた旅の物語だった。様々の出会いと別れ。本に向けて伸ばした俺の手は背表紙に触れる寸前で止まった。その本だけではない。昔大切にしていた本がその棚にたくさん並んでいるのに気付いたのだ。そう、俺もこの中から五冊だけ選ぶなんてできっこなかった。それなら……、


 俺は男のメモの五冊を持ってレジに向かった。店主は五冊の本の値札を確かめた後、俺の顔をちらりと眺め、

「ありがとうございます。二千八百七十円です」

と、つぶやくような声で言った。


 金を支払い、本屋を出た俺は本を渡すため男を探した。だが男の姿はどこにも無かった。どうして、と不思議に思ったが、取引先との約束の時間が迫っていた。仕方なく俺は本を持ったまま、取引先に向かった。角を曲がる際にもう一度振り返ったが男の姿は無かった。日に焼けた看板の『青春書房』と言う文字がかろうじて読めた。


 翌日、その本屋に行ってみると既に廃業しシャッターが下りた状態だった。もしかしたらと思ったが、あたりにあの男の姿は無かった。

 五冊の本は俺の手元に残り、俺はそれを繰り返し読むようになった。まあ、例の未読の一冊を除いてだが。四冊の本からはそれぞれ強い思いが伝わって来た。


 時おり、あの男は何だったのだろうかと考えてみる。急用ができてあの場を離れたのか、それとも……。店主が仕込んだ本を売るための仕掛けだったのかもと思ったが、わずかな冊数の本のためとしたら大仰すぎる。もしかしたら、五冊の本が新しい所有者を求めて幻を見せたのでは……、とまで思ってしまうのだった。


                 終わり

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