第70話
キィッとわずかな軋み音がして、開いたドアの向こう側に最初に見えたのは、深い深い緑色のシャツ。
『みどりいろっっ』
あの時のりっくんのシャツは、もっと明るい緑色だった。
「おはよ、空」
光を背負って、照れた顔でりっくんが立ってる。
「お、おはよう、りっくん…」
どうしよう すごい格好いい…っ
ドアを半端に開けたまま動けなくなってしまって、りっくんが「どした?空」ってドアに手をかけた。
「おはよう、律くん。空、固まっちゃってない?」
母が中から声をかけて、りっくんがぴくっとした。
「あ、おはようございます…っ。ちょっと…、はい…」
声が緊張してる。
4月に送ってきてくれた時みたいに。
母がたたきに降りてくる音がした。僕のすぐ後ろ辺りまで来てる。
「今日よろしくね、律くん。ていうか、これから、かしら。可愛がってね、空のこと」
そう言って、母は僕の頭を撫でた。
「あ、は、はい…っ、もちろんです…っ」
りっくんが母に真剣な顔で応えて、そして僕を見て照れくさそうに微笑んだ。
「じゃあ、気を付けて行ってらっしゃい。ああ、空はまだ靴が履けてないのね」
「だ、だいじょぶ。外で履く…っ」
スニーカーを突っ掛けたまま前に進むと、りっくんが腕を取って支えてくれた。
じゃあね、って母がドアを閉めた。それを二人で息を飲んで見つめていた。
「…今度はほんとによろしくされた…」
掠れた声でりっくんが呟いた。そして僕の両肩をがしっと掴んだ。
「絶対幸せにするからな」
強い瞳で僕を見つめて、低く響く声でりっくんが言った。
「ぼ…僕も、りっくん大切にする…っ」
りっくんの緑色のシャツを掴んで泣きそうになりながら言ったら、りっくんは光に溶けてしまいそうなほど眩しい笑顔を向けてくれた。
ようやくスニーカーをちゃんと履いて、りっくんに肩を抱かれて駅に向かった。
とりあえず、映画に間に合うように行かなきゃいけない。
りっくんの腕が肩に乗ってなかったら、身体が浮き上がっちゃうんじゃないかと思うくらいふわふわしてる。
「どうしよう、りっくん。顔がね、笑っちゃう」
「いいんじゃね?可愛くて」
覗き込んでくるりっくんだって笑ってる。
土曜日の駅は、ほどほどに混んでいて、電車もラッシュほどじゃないけどって感じだった。車両の真ん中辺りまで行って、りっくんが高い位置の手すりを掴んだのを見て、僕はりっくんの腕に腕を絡めた。
りっくんのことを見てた斜め前のお姉さんが、目を見張って僕を見たから、僕はりっくんの腕に顔を埋めた。
りっくんは僕を見下ろして、くすっと笑った。
腕を組むと「りっくんは僕の」って感じがするし、肩を抱かれると「空は俺のだ」って感じがする。
どっちもいい。どっちも幸せだ。
電車を降りても、うっかりしたふりをして改札まで腕を組んだまま歩いた。
改札を抜けたら、りっくんが僕の肩を抱いた。
無事、時間までにシネコンに着いて、飲み物を買って席に座った。
僕がお願いした通りの席。後ろから2列目の、中央通路側。
カップをホルダーに置いたら、りっくんがスッと顔を寄せてきた。
「話したいこといっぱいあるけど、映画館って結構声響くからまた後で、だな」
耳元で囁いたりっくんを見返して、うん、って頷いた。至近距離で見たりっくんの長いまつ毛が、シャープな頬に影を落としている。
映画より りっくんを見ていたい
照明が落ちて、CMが始まった。
暗闇の中、りっくんの手が僕の手に触れた。
昔、映画館の闇の中で身体を触られたのはあんなに怖かったのに、りっくんに触れられて嬉しくてドキドキしてる。
触れてきたりっくんの長い指を握ってみたり、りっくんが僕の手を撫でたりして、最終的に僕の手が下になる恋人繋ぎに落ち着いた。
指と指を絡めて繋いだ二人の手が、しっとりと湿ってくる。
映画の内容がイマイチ頭に入ってこない。
映画ってデートの定番だと思うけど、みんなちゃんとストーリー分かってるのかな?
時々手の向きを変えたりして、でも離すことはなく、りっくんの手の大きさを教え込まれてるみたいにずっと繋いでいた。
エンドロールが流れ始めて、席を立った人が僕たちの席の前を通って行く。
りっくんは脚が長いから、りっくんの前を通るのは大変そうだった。
でも女の人がゆっくり通るのは、通りにくいせいだけじゃないと思う。
絡めた指に力を込めたら、りっくんもぎゅっと握り返してくれた。
上映が終わって、照明がゆっくりと明るくなって、僕たちはようやく手を離した。…離したくは、なかったけど。
「…空、映画どうだった?」
肩を抱かれて訊かれて、言葉に詰まった。
「俺、全然頭に入ってこなかった。だめだ、空のことしか考えられなくて」
苦笑いを浮かべたりっくんを見て安堵した。
「…僕も、おんなじ…」
上目にりっくんを見上げて言ったら、「マジで?」って嬉しそうに言ってた。
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