第68話

「うわ、すごいじゃない空。数学苦手じゃなかった?」

 金曜日の夜。

 テストの翌日から早速戻されてた解答用紙たちを、まとめて母の前に差し出した。りっくんにはもう全部結果は伝えてある。


「うん。なんか…思ってたより良かった。全体的に」

「空、頑張ってたもんね。律くんに教えてもらったのも良かったんでしょ?」

「…うん。出そうな問題教えてくれて、ほんとに結構出てた」

 本題は、ここから。


「でね、お母さん。テスト頑張ったからって、りっくんが明日、映画…、つ、連れてってくれるって…」

 自然に、何気なく、滞りなく。そう思って、頭の中で何回も何回も練習したセリフなのに、母の前に立つと緊張して舌が強張る。


「テストのご褒美?」

 丸がいっぱい付いた解答用紙を、1枚ずつ見ながら母が訊いた。

「うん、そう…っ」

 手のひらに、じんわりと汗が滲んでくる。

 母がじっと僕を見上げた。


「っていうか、デートでしょ?」


「…え…っっ」

 目の前で、パンッと何かが爆発したような衝撃を受けた。


「空、空。固まんなくていいから。お母さん咎めたりしないから、ね?」

 遠くで母の声がする。

 肩をとんとんと叩かれてびくっとした。

「ね、空。座って話しましょ。こっち来て」


 母が僕の手を引いて、リビングのソファに向かってる。

 足下の床がぐにゃぐにゃと柔らかいように感じて歩きにくい。

 ぎくしゃくとソファに座ったら、母も隣に座った。

 そして僕の手を取って、ぎゅっと握った。


「4月に律くんが空を送ってきてくれた時ね、お父さんが初めてうちの両親に挨拶に来た日のこと、思い出したの」

 ドクドクとすごい勢いで流れてる血液の音に混じって、母の声が聞こえている。


「いくら歳が離れてるって言っても、友達っぽくないなぁって思った。なんか『俺が守るぞ』って感じがして、やけに格好よかったし、律くん。それに空もあの日から雰囲気が変わった。前よりもっと可愛くなって、もっと綺麗になった」

 僕は母の顔を呆然と見ている。頭の中は真っ白で、言葉なんて何にも出てこない。

 母が僕の頬を細い手でそっと撫でた。


「…大事にされてる、って顔…」

 母はポツリと呟いて、にこりと僕に微笑みかけた。


「空、気付いてる?律くんが、ご飯食べるスピード合わせてくれてるの」

「え…?」

「律くんのお母さんに食べる量を訊いた時にね、言ってたの。『律は大食いだし早食いなのよね』って。その時、あれ?って思って。前の水曜日の晩ご飯、律くん早くなかったのになって。それで、その後は気を付けて見てたの。律くんね、空の方さりげなく見ながら、同じタイミングで食べ終わるように調整してた。たまたまじゃないわよ?毎回なんだから」

 握った僕の手を揺らしながら母が言う。


 僕は食べるのが遅いから、誰かとご飯を食べると、たいてい置いてけぼりにされる。学校での昼食なんて、いつも最後は大慌てだ。…でも。


 そう言えば、りっくんとご飯を食べてて慌てたことがない。

 学校みたいに時間が区切られてるわけじゃないから、とも違う。時間がいっぱいあっても、相手が早く食べ終わってしまったら、やっぱりゆっくりはできない。

 なんで気付かなかったんだろう。


「…やっぱり気付いてなかった?まあでも、気を付けて見てないと分かんないかも。すっごい自然だった。空のペースとご飯の量を頭の中でパパッと計算してるんでしょうね。空が気遣われてることに気付かないようにしてたんだと思う。…私がバラしちゃったけど」

 ぺろりと舌を出して母が笑った。


「あのね、空。私にとって一番大事なのはね、空が幸せなことなの。旅行の時に言ったでしょう?空を大事にしてくれる、空が大好きな人と付き合ってほしいって。だから、その二つの条件に当てはまってれば、それでいいの」

 依然として心臓は強く打ち続けていて、視界も揺れてきている。その揺れる視界がぶわっと歪んで、母の顔が分からない。


 こんなこと言われるなんて、思ってもなかった。

 鼻を啜った振動で涙がこぼれ落ちた。


「ていうかね、あんな完璧な彼氏連れて来られたら、文句なんて言えないわ」

 母がティッシュで涙を拭ってくれるけど、全然追いつかなくて、大粒の涙が顎から膝に落ちていく。

「空、あんまり泣いたら目が腫れちゃう。明日デートなのに」

 ちょっと待ってて、って立ち上がった母が、少しすると濡らしたタオルを持ってきてくれて、目元に当ててくれた。


「明日、楽しんできて。お母さんも、お父さんとどっか行こうかなー?」

 ふふふって笑った母に、うん、て頷いて応えた。

「…おかあさん、…ありがと…」

「幸せでいて、空。律くんモテモテだから大変なこと多いだろうけど」

 母の手が僕の頭をゆっくりと撫でる。

「やっぱり運命の出会いって、ぶつかって始まるのかしらねぇ」

 

 人生はドラマティックね、って母が笑って、僕も泣きながら笑った。

 

 

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