第4話 聖域③

 聖域『生命の森』。そこは教会が指定する禁足地である。

 管理という名目で立ち入りを禁じて放置している。

 膨大な森林資源が眠る森であるが開発されていない。

 そのことを批判する者もいるが、森の実態を知る者は妥当な判断だと従っている。

 なぜかと言えば、豊富なのは森林資源だけではないからだ。

 希少な薬草が生い茂る横を大型魔獣が闊歩する。普通の獣すら莫大な神気と魔力の影響を受けて他に類を見ないほど強大に成長している。

 利益が霞んで見える超危険地帯。それが生命の森である。悠々歩いていたマイスたちが異常なのだ。

 そんな生命の森の中心部、そのすぐ近く。

 

「……思ったよりしっかり村だな」


 マイスはびっくりしていた。

 モルキルの話を聞いて家族単位で住んでいることは知っていたが、せいぜいあばら家くらいのものが二、三軒並んでいるくらいだと思っていた。

 大きな藪をぐるりと回って到着したその場所は、十件ほどの家が軒を連ねている。マイスが生まれたテハ村より栄えているのではなかろうか。

 

「モルキル、こんなところに村を作って魔物に襲われたりしないのか?」

「この森は過剰なくらい食料が満ちている。魔物の縄張りを踏み荒らしたりしなければ平和なものだ」

「ああ、なるほど。だから教会はここを放置したのか」


 教会が利権の塊のようなこの森を放置する理由が見えてきた。

 おそらく教会は開発しようとして返り討ちにあったのだ。

 森を拓くには大量の人手が必要になる。大人数で騒ぎながら森に立ち入れば獣たちは侵入者を排除する。

 今回魔物たちはマイスを避けてくれたが、もしも森の生物が総出で襲い掛かってきたらマイスたちも逃げ帰ることになる。

 マイスとシエンを上回る戦力を当時の教会が持っていたとは思えない。かといって森に火を放ったり毒を撒いたりすれば森林資源も台無しになる。

 打つ手をなくした教会が、せめて他所に利権を奪われないように禁足地に指定したのだろう。

 

「なんにしても獣の縄張りを見切って村を作る手腕は大したもんだ。すごいな」

「それは、どうも」

「で、こいつらはどこに運ぶんだ?」


 気絶した襲撃者を、モルキルが男を、マイスが女を担いでいる。

 シエンも担ごうとしたが、モルキルが仲間を教会騎士に預けることを嫌がったのでマイスが担ぐこととなった。

 モルキルは奥にある大きめの建物を指さした。


「講堂まで頼みたい。あそこなら寝かせるスペースに困らないし薬もある」

「あいよ。……それにしても人の姿が見えないな」


 まだ日中だが目に付く範囲には誰もいない。建物の中からこちらを伺う視線を感じる。

 こんな時間に誰も働いていないというのは不自然だ。自給自足の生活をしている村で、全員が内職しているとは思えない。


「それは――」

「モルキル、おかえりー…………?」


 村の奥の方から一人の少年がモルキルに声をかけた。最初は笑顔だったがマイスとシエンの姿を見つけると次第に表情がこわばっていく。


「なあ、その人たちは……?」


 こわごわとした様子で少年はマイスたちに視線をやりながらモルキルに尋ねる。

 1割の好奇心と4割の恐怖心、5割の警戒心くらいの様子である。

 

「俺はマイス。用があって森に来たんだが、行き違いでモルキルたちとケンカしちまったんだ。仲直りできたから村に招待してもらったんだ」

「そう、なんだ。だからミルメル担いでるのか。……なんでデコに失敗なんて書いてんだ?」

「好きで書いたんじゃねえよ。消す方法探してこの森に来たんだ」

「そっか、なんか大変そうだな」

「大変なんだよ」


 子供と話す時だけは失敗の烙印が便利だ。子供は必ず気にして直接質問してくる。聞かれることが分かっているのでマイスも落ち着いて対応できる。

 大人に無遠慮に詮索されたらイラっとするが子供相手に怒るほど大人げなくない。マイスが子供なら絶対気になるし。

 疲れた様子のマイスを見て少年は警戒心を緩める。ケンカしてモルキルの仲間を気絶させたのちに和解、村まで気絶した人を担いできてくれたのだと理解した。

 すると気になるのは誰も担がずマイスの後ろに立つ男だ。見た目の印象としてはマイスの方が荒っぽく、シエンの方が毛並みが良い。少年はマイスがシエンの護衛的な立場だと想像した。


「私はシエン・ディン。教会騎士だ」

「きょう、かい……教会!? いたっ」


 少年の反応は激烈だった。

 ひ、と喉がひきつらせて目を見開く。びくりと後ろに下がろうとして足をもつれさせ倒れてしまう。その拍子にとがった石が手に当たる。じんわりと血がにじんでいた。

 モルキルが起こそうとするがすでに仲間を担いで手がふさがっている。

 唯一手ぶらのシエンが回復魔法をかけようと手を伸ばす。

 

「いやだぁぁぁぁぁぁ! ごめんなさい、ごめんなさい、ゆるして!! ころさないで!!!」


 少年が叫んだ。腰が抜けて立ち上がれないのに両手で地面をかきむしりながらシエンから逃げようとする。その顔は必死の形相で、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。


「……すまない、マイス。もうひとり担いでもらえるか」

「よしきた」

「講堂の鍵はかかっていない。広い部屋に布団も置いてあるから寝かせておいてくれると助かる」

「任せろ」


 モルキルはマイスに自分が担いでいた仲間を渡す。マイスにとっては人間のひとりやふたり大した重量ではない。ひょいと受け取って講堂へ向かった。

 シエンは動けなかった。何があったのか想像できていたつもりだったが、名乗っただけでここまで怯えられるとは思っていなかった。回復魔法をかけようと伸ばした手は行く当てを失っていた。

 モルキルは少年を抱えてその場を後にした。もう大丈夫だ、とパニックを起こした子供の背中をさすり落ち着かせる。


「おーいシエン、このドア開けてくれ。両手ふさがってんだ」

「あ、ああ」


 講堂にたどり着いたマイスに声を掛けられるまで、宙ぶらりんになった自分の手を眺めていた。

 

―――

 

「すまなかったな。あの子は村を焼かれた時に両親を目の前で殺されたんだ。最近は明るい様子を見せてくれるようになったんだがな」


 マイスたちが気絶した魔族二人を布団に寝かせて手当を終えた頃にモルキルが戻って来た。布団の近くに腰を下ろすや否や、とんでもない爆弾を投げ込んできた。

 誰に村を焼かれ、誰が少年の両親を殺したのか。モルキルは言わなかったが教会関係者であることは想像できた。

 モルキルはシエンの方を見ない。無視しているわけではなく、今シエンを見たら睨んでしまうからだ。シエンもまたどんな顔をすればいいのか分からず下を向いた。

 一方マイスは全く気にした様子がない。書類上教会に所属しているだけで教会への帰属意識が皆無だからである。シエンのように後ろめたくない。

 

「そうか。それじゃあここに村を作った経緯を教えてもらえるか」

「おれたちは魔王領から逃げてきたんだ」


 もともと魔王領は平和な場所だった。人族と関わることもほとんどなく、多くの種族が力を合わせて生活していた。

 変わり始めたのが四十年ほど前。それまで善政を敷いていた王の様子がおかしくなった。

 国内の産業を充実させるより他の種族から奪うことに力を入れるようになった。人から奪うためには強い暴力が必要となり、力が強い種族が優遇されるようになった。

 三十年ほど前に人族との戦争が始まった。弱い種族は奴隷のように扱われた。戦争が激化するにつれてその傾向は強まった。

 モルキルたちはそれを苦にして逃げ出した。

 当てのない逃避行であった。魔族に見つかれば裏切り者として殺される。人族に見つかっても教会が反魔族を打ち出したため虐げられる。魔族も人族も等しく敵だった。

 モルキルたちは次第に数を減らしていった。時たま子供が生まれても過酷な環境に命を落とすことが多かった。出産の負担で母親が死んでしまうことも、敵との戦いで父親が死んでしまうことも珍しくない。


「そりゃあ神託の勇者だの教会騎士だの言われたら警戒するわな。納得だ」

「……理解してもらえたようで何よりだ」


 モルキルは深く息を吸って、吐いた。

 そして床に両手をつけ深々と頭を下げる。


「頼む。おれたちがここに住んでいることを見逃してほしい。もしそれが無理だとしても仲間が逃げられるだけの時間をくれ」


 モルキルはもう一度「頼む」と言った。頭を下げたまま動かない。

 

「俺は構わんぞ。わざわざ言う必要もない」


 マイスは魔族が聖域に住んでいることを問題視していない。聖域に隠れてテロを行うつもりなら放っておかないがモルキルからそういった気配は感じない。自分たちの生活を守ることで手一杯だろう。


「感謝する」

「いいよ。んで、問題はシエンだな」


 モルキルはわずかに頭を上げた。視線がシエンに向く。マイスもシエンを見る。

 

「事情は分かったけれど、このまま放置するわけにはいかない」

「おれたちはこの森に隠れ住んでいるだけだ。人族の社会に害をなす余裕などない。それでもか」

「それでもだ。モルキルたちのためでもある」

「……おれたちの居場所を奪うことが、おれたちのためだと言うのか」

「魔王は倒したけど、教会が抱える戦力は残っている。……教会が余った戦力をこの聖域に向ける確率が高い。最悪、生命の森を切り拓けるだけの戦力を抱えた開拓団と戦うことになる」


 シエンもマイスと同じように、教会がかつて生命の森を開拓しようとして失敗したのだと予想している。

 魔王という脅威がなくなった以上、その人手を未開拓地に向ける可能性がある。今すぐではなくてもいずれその時が来るだろう。

 もしも教会戦力にこの村が見つかったらどうなるか。考えるまでもない。


「私はどうにか食料を確保し、教会が手を出さない場所まで逃げてもらうしかないと思っていた。けど、他の方法があるんだろう?」


 シエンはそう言ってマイスを見た。

 

「ああ。教会はこの土地の管理人を気取っているんだろう? なら話は簡単だ。土地の所有者の許可を取ればいい」

「所有者……人族の王か?」

「いや違う」


 マイスはにやりと笑った。

 

「神様だよ」


 この聖域は教会が管理している。

 生命の森は神気に満ちている神の土地だから、神の代行者である教会が管理するという理屈である。

 反魔族を掲げる教会が管理する土地だから魔族であるモルキルたちが見つかったら排除される。

 では、土地の所有者である神自身がモルキルたちの村の存続を許可したらどうだろうか。

 教会は村を滅ぼす大義名分を失う。土地の管理者に所有者が許可した住民を追い出す権利はない。

 

「なるほど……いやしかし、そんなことが可能なのか?」

「実は俺もこの烙印の消し方を聞くためにこの森に来たんだよ。神に質問できるか、返答があるかは試してみないと分からない。だが試す価値はあるだろう?」

「……そうだな」


 生命の森を出る場合、平穏に暮らすためには未発見の土地を開拓するしかない。それも、人族が当面手を出せないような遠方の土地でなければ意味がない。

 残念ながらモルキルたちには不可能である。そんな真似ができるなら生命の森に来ていない。

 忌々しい教会が信奉する神の許可を求めることは業腹だが、許可さえ得られれば当面の安全は保障される。

 

「……いや待て、ではもし神の許可を得ることができたとして、生命の森に魔族の村があると報告するつもりか?」

「そこはシエンの出番だな。教会が生命の森に手を出そうとしたタイミングで上層部に神託を報告させる。握りつぶして村を攻めようとしたら俺たちの出番だな」


 神が許可を出したのに手を出せば、教会こそが神意に逆らう反逆者となる。

 教会の上層部は報告を握りつぶし村を滅ぼそうと考えるかもしれないが、そうなればマイスが出張る。腹立たしい上層部の生臭たちを、神をないがしろにする逆賊として断罪できる。狂信者たちも全面的にマイスに協力するだろう。

 

「……つまり、こいつ次第というわけか。教会が動きを見せてもこいつが黙っていれば村は滅ぼされる。魔族の村があるとだけ報告した場合も同じだ」


 シエンを見るモルキルのまなざしは厳しかった。

 同じ教会関係者であってもマイスは一度モルキルの命を救っている。言葉や態度に教会への反感がにじんでいることもあり、いくらか信用できる。

 一方シエンは自分の意志で教会に所属している教会騎士だ。教会の意向を優先する言動もある。とても信用できない。

 シエンも自覚があるのか気まずそうに顔を伏せている。


「まあ信じられないだろうな。ここまで聞いた話だけでも分かる」


 マイスはうんうん頷いている。村を焼き仲間を殺した連中と同じ組織に所属している相手をあっさり信用したらその方がおかしい。

 

「でも、シエンは他の教会連中とは違う。ちゃんとした信仰を持ってるやつだ。もし教会とうまくやろうと思うならこいつ以上の適任はいないと保証する」


 ばん、と音がするくらい強くマイスはシエンの背中を叩いた。衝撃と驚きでシエンの顔が上がる。

 シエンはいきなりなんだとマイスの顔を見るが、マイスはモルキルに視線を向けている。

 モルキルの表情はいまだに厳しい。


「今さら教会を信じろと? これまで仲間を、家族を殺された恨みを忘れてそいつに頭を下げろと?」

「ンなこと言ってねえよ。今後生き残る確率を上げるならこいつをうまいこと利用する選択肢もあるってだけだ。シエンは俺が唯一信頼する教会騎士だからな」


 教会が管理する聖域に住んでいる以上、未来永劫教会と関わらないという考えは現実的ではない。

 いずれ接触するなら、窓口は話が分かるものがいい。その上で地位や権力があればなおいい。

 マイスが知る限り、そんな教会関係者はシエンだけだ。

 教会を信じられなくても、シエンのことなら信じられる。胸を張って紹介できる。

 

 くぁ、とマイスがあくびをする。ごろりとその場に寝転がった。


「今日は疲れた。俺は寝る」

「おいマイス、話はまだ終わってないぞ。もし神と会話できなかった場合のことも……」

「明日だ、明日。今すぐ知りたいことがあればシエンに聞け。あと布団借りていい?」

「……好きにしろ」


 とりつく島もないマイスの態度にモルキルは折れた。嫌がるマイスから無理やり話を聞き出す術を持っていない。

 やった、と布団を取り出して横になるマイスを横目にモルキルはシエンを見てため息をついた。

 マイスはああ言ったがシエンは教会騎士である。とても信用できない。仲間が寝ている講堂に置いておきたくないが、かといって村の中を好き勝手歩かせたくもない。


「仕方ない、ついてこい。今日はウチに泊まれ」

「いいの? 野宿でも私は構わないけれど」

「お前みたいなやつを野放しにする方が恐ろしい。不審な真似をするんじゃないぞ」


 モルキルはこの村で一番強い。いざシエンが暴れ始めた時に対処できるのはモルキルだけだろう。

 もっとも、マイスの連れということを考えると時間稼ぎすら難しそうだが。


 講堂を出ると夕方の村には森から戻って来たであろう男女や大鍋で食べ物を煮込む人がいた。モルキルがマイスたちを連れて帰ってきた直後に比べればいくらか賑わっている。

 とはいえせいぜい二十人程度の規模だ。村というより大家族といった雰囲気に近い。

 シエンは物珍しそうにきょろきょろ周囲に視線をやる。


「不審な真似はするなと言ったはずだが」

「ごめん。どんな生活をしているのか気になったんだ。怪我人が多いね」

「楽な暮らしはしていない」


 聖域に移り住んでおおよそ一年ほど。魔物の生息域の隙間を縫ってこの場所に辿り着き村を作れたことが奇跡である。

 モルキルたちが使える土地は狭い。住民全員分の食料を確保するほどの畑はとても作れない。

 生命の森は名前の通り動植物に満ち満ちている。食べれる植物は探せばいくらでもある。

 しかし、村を出ることは他の生物の縄張りに踏み込むこととほぼイコールである。いくら腹が満ちていても縄張りに侵入者がいれば獣たちは攻撃する。罠を仕掛けても壊されていることが多く、食料確保はこの村で最も難しく危険な仕事だ。

 

「こんにちは、私はシエン・ディンという。回復魔法を使えるのだけれど入用かな?」

「おい!?」


 モルキルが止めるより早くシエンは傷の手当てをしていた男に声をかけた。

 

「あんたは誰だ? 人族か? モルキル、知り合いか?」

「……客だ、一応」


 小さな村だ。村人は全員が顔見知りである。初めて見る人族を不審に思わないはずがない。

 モルキルはシエンが教会騎士であることを伏せた。知ったら村人たちは恐怖におびえるか排除しようとするかのどちらかだ。どちらにしてもろくな結末にならない。

 男は客という言葉とモルキルの態度に困惑する。敵を客と呼ぶ理由がないし、客と言う割にモルキルは嫌そうな顔をしていた。招かれざる客、というやつだろうか。

 

「悪いが金は払えないぞ。食うのもギリギリだから治してもらっても対価は出せん」

「構わない。私がやりたいからやるだけだ」

「なら、頼みたい。助かるよ。傷が早く治れば早く働ける」


 この村は人手が足りない。人数そのものが少ない上に村を出るたび多かれ少なかれ怪我をする。怪我をすれば血の臭いを嗅ぎつけた肉食獣に襲われるリスクが跳ね上がる。怪我が治るまで村の中にいるしかない。

 回復魔法ですぐに治るならありがたいことだ。モルキルは複雑な顔をしながらも止める様子はない。

 シエンは手際よく男の怪我を治療した。獣の爪に切り裂かれた傷が跡形もなく消え去った。


「すごいな、回復魔法といってもここまで綺麗に治るものなのか」

「これでも少しは腕が立つ方なんです。もし他に怪我人がいたら連れてきてください。なんなら私が出向きます」

「助かるが……おいモルキル、客人にそこまで働かせていいのか? 失礼だが、対価を求めないというのも少し怖いのだが」


 タダでいい、と言いながら裏で借用書を作るなど使い古された詐欺の手口である。タダほど高いものはないのだ。


「私が怪我人の手当てをしたいだけです。もし不安なら回復魔法の練習をしているのだと思っていただければ」

「おい」


 治療を続けようとするシエンの手をモルキルが強く引いた。

 感心したような顔をする男から少し距離をとってモルキルは小声で詰問する。

 

「なんのつもりだ。点数稼ぎか?」

「私の主義だ」

「怪我人を治すことがか?」

「『力あるもの、その力が及ぶ限り他者に手を差し伸べるべし』だ」

「…………胸糞悪い!!」


 モルキルはばっとシエンから距離を取った。その表情は不快感と怒りに染まっている。

 一瞬間をおいてわずかに冷静さを取り戻した。シエンが治療した男はモルキルを怪訝そうに見ている。彼から見れば怪我の手当てを申し出た相手にモルキルが怒鳴りつけたように見えたのだから当然である。

 モルキルは歯が砕けそうなほど噛みしめながらシエンのそばに戻る。

 

「薄汚い聖典の一節なんぞ聞かせやがって、なんのつもりだ」


 モルキルは教会の聖典を読んだことがある。

 敵のことを知るために一通り目を通し、あまりの気持ち悪さに破り捨ててしまった。

 人助けしろとか他人を思いやれとかいかにもらしいことが書いてあるくせに、魔族は神敵だから殺せと宣う。その信者が行うのは弱者への弾圧と虐殺である。忌々しい教会が信者の行いを正当化するために作ったものに思えて仕方なかった。

 

「あなたは勘違いしているようだが、私は聖典を信じているのであって教会を信じているわけではない」

「聖典は教会が発行しているのだろう。同じことだ」

「私が貴ぶのは聖典の原本だ。今の上層部が都合よく書き換えたものじゃない」


 シエンは腰に提げていた剣を鞘ごとモルキルに渡した。

 

「マイスに言われて吹っ切れた。私は私ができることをやる。信用できないと思うならそれで私の首を斬るといい。あなたが私の剣で首を斬ったならマイスは文句を言わないはずだ」


 それだけ言ってシエンは男の方へ戻っていった。近くにいたものを片っ端から治療し始める。

 モルキルでは不意をうってもシエンから剣を奪えない。奪えたとしても首を斬る余裕はない。仮にモルキルがシエンを殺したとしても、マイスはそれがシエンの意志によるものだと判断するだろう。

 

 回復魔法は多量の魔力を消費する。他人にかけるとなれば負担はさらに大きくなる。

 シエンは額に汗を浮かべながらも笑顔を絶やすことなく村人の手当てをしていった。

 胸を張って怪我人を治すその姿に後ろ暗いものは皆無だった。

 モルキルは離れた場所で眺めていることしかできなかった。

 

―――


「結局お前は何がしたかったんだ。主義とはなんだ」


 シエンが村人の手当てを終えた頃には日が沈み切っていた。

 薄暗い火が灯る自宅にて、モルキルはシエンに疑惑の目を向けた。

 教会のイメージアップが目的だろうか。露骨すぎるが効果的でもある。回復魔法という分かりやすい実益があれば村人は親教会派と反教会派に割れることも考えられる。村人の方針が割れて仲間同士で対立するのはモルキルにとって最悪の未来だ。

 対するシエンはひるむことなくまっすぐ答えた。

 

「私は困っている人を助けたかった。主義というのは、聖典の精神に則って生きることだ」


 モルキルは苦虫をかみつぶしたような顔をする。

 シエンは聖典の原本を貴ぶと言った。原本の内容を知らなければ反論もできない。

 

「私からも質問するが、モルキルは『困っている人がいたら力の及ぶ限りで助けなさい』という考えをどう思う? 教会がどうとか抜きに、あなたの意見を聞きたい」

「……正しいだろうよ。実行できれば、だが」

「ああ、まさにあなたたちが日々の暮らしで実践していることだろう」


 なんとか否定したくてつけた嫌味もシエンはあっさり受け流した。

 

「少し自分語りをしてもいいかな? 主義とだけ言われてもモルキルは納得しがたいだろう。かといって聖典の内容を詳しく語るには時間がないし」

「聖典の中身なんぞ聞きたくもない」

「だろう。私の身の上話なら少しは聞き入れる余地があると思うが、どうだろうか」

「……好きにしろ」

「ありがとう」


 シエンからおどおどした様子が消えていた。むしろモルキルが気圧されてシエンから目を逸らしてしまった。

 

「私が生まれたディン家は代々教会騎士や高位の神官を輩出している、教会の名家だ」

「は、貴族のボンボンってことか」

「貴族ではないよ。箱入りのボンボンだったことは認めるけどね。そんなボンボンだった私は、神託の勇者と年齢が近いこともあって教会騎士として力をつけるよう父に言われ、それに従った」


 他の道がどうとか考えることすらなかった。教会が言うことは絶対で、教会で立場を持つ父の言うことに従うことが当たり前だと思っていた。

 

「教会と父の言いなりに育った私だけど、マイスと出会った日に疑問を持ったんだ。それまで神は人を愛し慈しむ絶対の存在だと教わっていた。けれど、そんな神の寵愛を一身に受けたはずのマイスは教会騎士に袋叩きにされていて少しも幸せに見えなかった。そのうえ額に失敗の烙印を捺されていた」


 シエンはマイスと出会ったと表現したが、実際は少し違う。シエンがマイスを見たと言った方が正確だ。

 その日、神託の勇者が教会に来るという噂があった。それまで神託の勇者は個人の力を極限まで高めるため、徹底した英才教育を受けていた。

 神託の勇者はいずれ魔王と戦うことになる。決戦に備え仲間を見つけ連携を鍛えるために教会騎士と合同で訓練するという。

 当時まだ教会騎士候補生だったシエンはマイスと共に訓練することはできなかった。

 しかし、他の子どもと同様に神託の勇者という存在への好奇心があった。

 きっと立派で高潔で神気に満ちた、現人神のように輝かしい人だと思っていた。

 シエンは他の子共たちとこっそり勇者の訓練を覗きに行った。


『なに、あれ』


 それは誰が言った言葉だっただろうか。

 神託の勇者らしき子供は地面に倒れ伏していた。大人の騎士に木剣で殴られ、倒れれば腹を蹴られ無理やり立ち上がらされる。その額には『失敗』の二文字が光り輝いていた。

 教会騎士に髪を掴まれ、額を晒し物にされ、嘲笑われていた。

 想像していた神託の勇者とは似ても似つかなかった。

 あまりに痛々しい光景にシエンと共に覗きに来た子供たちはすぐに立ち去った。

 『頼りない』『失敗ってなんだよ』『みっともない』と口々に言いながら幻滅した様子だった。

 シエンだけは叩きのめされ、笑われ、それでも立ち向かうマイスの姿を、マイスが完全に気絶させられるまでずっと眺めていた。

 

「それを見て思ったんだ。神とは本当に聖典で語られるような存在なのか、とね。だって思いやりと人間愛に満ちた神だとしたら額に『失敗』なんて捺さないだろう?」


 神託を正確に伝えて人族を助けるという点だけ考えれば、烙印は効率的だろう。

 その裏で烙印を刻まれた本人はまともな幼少期を与えられず嘲りを受けていた。

 聖典では、神はひとりひとりを見守っており、愛していると語られていた。それを知ることが真の幸福だと聖典は語っていたが、シエンはそう思えなくなった。

 仮に神が人族を愛していたとしても、それは聖典に語られるような一人一人に与えられる愛ではなく、人族全体の数を見て処置される機械的なものではないか。

 

「そう思ってしまったら全てが疑わしく感じられたよ」


 教会騎士となるべく修行する傍ら、教義と教会の歴史について深く学んだ。

 当たり前のように語られていた『魔族は神敵』という考えはここ数十年で教義に加えられたものだった。研修という名目で向かった古代都市で調べてみれば、魔族とともに神事を行う壁画の写しがあった。

 立派な騎士だと思っていた父は利権のためにシエンを勇者と近づけようとしていた。貞淑であるべき信徒の身でありながら母以外の女性と肉体関係を持っていた。母も同様だった。

 目指していた教会騎士はマイスをいたぶって笑う外道だった。教会の上層部は信者から金を巻き上げ、貴族と癒着し自分を太らせることに必死だった。

 一部、熱烈な狂信者はいたが、信奉するあまり異教徒殺すべしという極端に走っていた。聖典には他者を排斥するべからず、他者の声に耳を傾けるべし、とあるのに。


「教会の実態は聖典が示す在りようとはかけ離れていた。家も捨てて教会も捨てて逃げ出そうかと真剣に考えた」

「……だが、お前は今も教会騎士なのだろう」

「うん。逃げようとしたところでマイスに会ったんだ」


 教会に嫌気がさして騎士候補生が住む寮からこっそり抜け出した。

 正門側には警備がいる。しかし裏門側は夜に通る人はなく警備がガバガバだった。

 裏門は訓練場に面している。訓練場の隅を通り敷地から出ようとした。

 物音がした。慌てて木陰に身を隠すと殺気を放ちながら剣を振っている人がいた。マイスである。顔は見えなかったが『失敗』の二文字が宙に浮いていたので間違いようがなかった。


「本当は隠れて逃げるべきだったんだろうけど、私は聞かずにいられなかった。『どうしてあんな目に遭わされても人族のために戦おうと思えるのか』って。そしたらマイスは何て言ったと思う?」


 マイスはシエン以上に教会の醜いところに直面していたはずだ。神の教えと自分の境遇に絶望して命を絶ってもおかしくない状態だった。

 こんな時間になんだコイツ、と言いたげな顔をしながらもシエンの質問に答えてくれた。


「……さあな」

「『人族なんて知るか、滅べばいい』って言ったんだよ」


 シエンは思い出して笑った。モルキルも目を点にする。


「……あいつ、おれには助けられる命は助けるって言ってたんだが。勇者っぽいと感心したんだが」

「ああ、シエンはそう言うだろうね。とりあえず助けるし助けた相手に裏切られても構わないって言ってた。それだけだとまさしく勇者って感じなんだけど」

「何か続きがあるのか」

「裏切り者なら心置きなくぶっ殺せるって言ってた」


 モルキルは絶句した。マイスがミルメルを追った時に逃げなくてよかったと安堵した。

 マイスは明確に敵対していない限り命を助けようとする。

 その理由はシンプルだ。命は大切なものという考えがひとつ。相手の事情を知らず誤解や間違いで殺してしまったら後悔しそうで嫌だというのがひとつ。もうひとつは、助けたうえで裏切った相手なら問答無用で敵とみなせるからである。何か理由があろうと恩を仇で返してくる相手なら情状酌量の余地はないと自分で決めている。


「当時のマイスにとってほとんどの人族……特に教会関係者は敵だったんだ。だから助けるつもりは毛頭ないって言ってた」

「だが結局魔王を倒したのはマイスなんだろう?」

「魔王を倒せば失敗の烙印が消えるかもしれない。自分や両親が生きる上で魔王は邪魔だから仕留めたらしいよ。他の人族はそのおこぼれに預かっただけだって」


 マイスが魔王を倒したのはあくまでも自分のためである。

 その結果他人が助かっても構わない。業腹な部分はあれど、わざわざ台無しにしようとは思わない。

 なお、幼いマイスを虐待した教会騎士のほとんどは力関係の逆転と同時にしばき倒され、人手が足りない激戦区に放り込まれわりと凄惨な死を遂げている。


「想像していた勇者像とだいぶ違うな……それを断言するのは確かに勇者か」

「たしかに。でも自分のためと言いながら力をつけて人族を救ったのは事実だ。質問に答えた後、マイスは明らかに怪しい私を尻目に訓練を再開した。私はもう呆然としたよね。神託の勇者っていう妄想は壊れた後だったのに、さらに勇者像を壊された」


 逆境に負けない姿をすごいとは思っていたが、その努力を痛々しいとも思っていた。

 話してみればどうだ。失敗の烙印を消す、魔王邪魔だから殺す、そのために訓練する、という極めてシンプルな行動様式だった。


「目標を見定めてそのために今できる最善を尽くす。その姿を私は美しいと思った」

「……『己のすべきことに専心すべき』ってか?」

「そのとおり」


 モルキルがつぶやいたのは聖典にある言葉だ。

 当時のシエンは『仕事を頑張りなさい』程度の理解しかしていなかったが、目の前の勇者は聖典の教えをを体現していた。

 そして、シエンはその姿を美しいと感じた。

 

「教会に嫌気がさしていたけれど、聖典が間違っているわけではないかもしれない。そう思って脱走を思いとどまったんだ。逃げるだけならいつでもできるからね。訓練や勉強をするなら教会を利用した方が都合がよかったし」


 逃げたらあの勇者と肩を並べる機会は永久に失われると直感していた。

 シエンは身が入らなかった訓練と勉強に打ち込むようになった。

 魔王は倒さなければならない。すべての負担をマイスに押し付けるのは間違っている。神託の勇者に頼らなくても倒せるくらいが目標だ。

 教会の生臭神官や狂信者が言うことを鵜呑みにするのではなく言葉ひとつひとつの意味を考えるようになった。自ら学び考えることで、神を疑い揺らいでいた心に芯が通った。

 

「私が至った結論は、神は人ではないということと、聖典の本来の教えは正しいものだということだ」


 神は人ではないから人の気持ちは分からない。人ではないものに人間社会の正しさが語れるとは思えない。合理的かつ効率的に人族を存続させてくれるかもしれないが、そのために必要とあれば人道に反することをしかねない危うさがある。

 教会が発行する聖典は都合よく捻じ曲げられたものだが、本来の聖典が持つ精神は尊いものだ。シエンはその精神を守り生きていたい。

 

「教会が腐っていることは申し開きしようもない。教会があなたたちにした仕打ちを聞いて腰が引けてしまったのも事実だ。だが、ばつが悪いからと逃げ隠れるのは聖典の精神ではない」

「だから魔族でも助けるのか?」

「魔族がどうとか私には関係ない。それは上層部が後付けした教義だからね。私は私が正しいと思ったことをする」

「……そうか」


 モルキルにも思うところはある。

 組織人としてそれはどうなんだとか、おれよりテロリスト寄りの考えではないかとか。

 だが、すっきりした顔で断言されては何も言えない。モルキルにとっても都合が良さそうなので強いて口出しする必要もないだろう。

 

「まあ、アレだ。教会となんかあったら頼まあ」

「任せろ」


 頬をかきながらそっぽを向いて言ったモルキルに、シエンは力強く頷いた。

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