18.リルカの事情
「――と、そういうわけで、私には三千年前の記憶があるんです」
孤児院の応接室を借りて、リルカはまずは自分の事情を開示した。
三千年前に『アイシア』という名前で生きていたこと、戦場でヴィシャスの〈器〉への降臨に立ち会ったこと、そうしてヴィシャスに「妻になれ」と神界へと連れて行かれたこと。それを承服できなくてヴィシャスの宮から逃げ出したこと、その先でティル=リルに出会ったこと、ユースリスティやローディスの助力を受けて転生の輪に逃げ込めたけれど、だからこそリルカには三千年前の記憶があること。
一通り話し終わったリルカの前では、エセルナートが目を白黒とさせていた。
しばらくして、なんとかリルカの話した内容を呑み込んだらしいエセルナートが、しみじみと言う。
「なんというか……大変だったんだな……」
「でも、現世では静かに、平穏に生きてこられましたし……」
「……それを俺が壊してしまった、ということか」
「そんなことは、」
「俺がヴィシャス様の神印が描けるのかと問わなかったら、こんなことにはならなかっただろう」
「それは、私の気が抜けていたからで」
「だが……。……いや、これも堂々巡りだな。やめておこう」
そう言って、エセルナートは孤児院の手作り茶を一口飲んだ。孤児院で栽培している薬草を使ったオリジナルのお茶である。あまりおいしいとは言えないが、頭はすっきりする代物だ。
「ともあれ、リルカ殿はヴィシャス様に認識されてしまったわけだが……」
「そう、なんですよね……」
信仰が薄れているとはいえ神は神だ。正直、逃げ切れる気はしない。――と考えたところで、ふと疑問に思う。
「あの……エセルナートさんは、ヴィシャス様がお体に降りられても、表に出てこられる……のですよね?」
「え? あ、ああ」
「どうしてなんですか? ……あの、私の知っている〈器〉になった人というのは、神々が降りられたら表に出てくるものではなかったので……」
「そうなのか?」
意外そうに言われて思い返す。前世――三千年前は、〈器〉となったことのある人間は『アイシア』の周りにそれなりにいた。誰も彼もがどの神かに拝神していたし、神も人間界への手出しを好き勝手にやっていたので、〈器〉である――あるいは〈器〉になったことのある人と出会う確率は低くはなかった。リルカは戦場にいたのでなおさらだ。
そういう中で出会った〈器〉経験者は、己に神が降りたときのことを「ふわふわして、気持ちよかったけどなんかよくわからなかった」だとか「心地いい眠りについているような感覚だった」とか、神が降りている間のことを全く知ることができなかったタイプか、「すべてが膜一枚隔てた外の出来事のようだった」とか「自分の体が勝手に動いているのはわかっていたが、そのときはそれでいいのだと、それが心地よく感じていた」など、外界を知覚はしていたものの、己の体を己の意思の外に委ねていたタイプが多かった。エセルナートのように、降りた神と会話をする〈器〉というものは聞いたことがなかったのだ。
もちろん、『アイシア』の知らないところにはそういう〈器〉もいたのかもしれないが。
「よく、わからないが……そうだな。ヴィシャス様は最初降りて来られたとき、『久方ぶりの〈器〉だ。余地を残さねばならないのが面倒ではあるが』と言っていた。それが何か関係しているのかもしれない」
「余地……」
「エセルナートさんが、自分の体を動かせる余地を、ということなんでしょうか」
「リルカ殿の知る以前と違うというのなら、その可能性はあると思う」
神々が人間界にあまり手出しをしないようになった――その関係なのだろうか。現世では、古き神も新しい神も権能を大きく振るうことがないと聞く。長く戦乱も起こっていないので人間が大きな力を求めることも減ったし、人間の力だけで起こせる奇跡――『魔術』が隆盛した。そういったことが積み重なって神々への信仰が薄れてきたのだろうとリルカは思っているが、神々にとってそれは特に問題視することではないらしいので、やきもきしているのはリルカばかりだ。ティル=リルなんかは飄々としている。他の神については聞いたことがないのでわからないが。
「こういうのは、俺の知り合いの方が詳しいんだがな……」
「『古き神』の研究をしているというお知り合いですよね」
「ああ。『古き神』への興味が高じて、ミズハの国にまでやってきた奇特な男だ。ミズハでももはや拝神は主流ではないが、それなりに残ってはいるからな。無論、ミズハ以外の国も巡っていたようだが」
「今は、『魔術学院』に落ち着かれているんですか?」
「そうだな。俺の研究のためにしばらくはシャーディーン……というか『魔術学院』からは離れないと言っていた。〈器〉は現代では希少だから、俺が〈器〉となったのを知ったときには狂喜乱舞していたし」
エセルナートの言いぶりから、その『知り合い』とは〈器〉となる前から知り合いだったのだと知れる。度々話題に出てきた内容を考えれば、親しくしているのだろう。
シャーディーンに拠点を持つ、『古き神』に詳しい人物。となると、リルカが今世で『古き神』について調べたときに何度か目についた名前が思い浮かぶ。
「そのお知り合いの方って――もしかして『セヴェリ=トゥーロ』という方ではないですか?」
「知っているのか?」
「『古き神』を現在研究なさっている――エセルナートさんの口ぶりからすると大分前から――という方は限られますから。『セヴェリ=トゥーロ』氏の研究から、『古き神』や『神術』に着目するようになった研究者は増えましたけれど」
「そうなのか。俺は研究者界隈のことは詳しくないからな……あいつ、有名だったのか」
「そもそもが『魔術』の権威でいらっしゃったと聞いています。今『古き神』について研究しているとは知らなくても、その名前を知っている人はシャーディーンには多いでしょうね」
確か、魔術の申し子、天才として名を馳せながら、研究者としてもいくつもの著書を出していたはずだ。『古き神』についての著書はまだ数冊だが、近年に『古き神』について書かれた本は少ないのでリルカも目を通していた。
「確か、『魔術』で『神術』を再現できないか、というのを研究テーマに掲げていらっしゃるんですよね」
「そうらしいな。その一環で『拝神』や〈器〉、神そのものについて調べて回っていると言っていた」
その研究テーマを初めて目にしたときには、神によって与えられ振るうことができるようになる力を人間のみで成し得ようなんて、あまりにも神を軽視しているのでは、と思ったものだった。……今はもう、そういう時代になったのだ、と理解しているけれど。
「それで、……リルカ殿はヴィシャス様から逃れたい、ということでいいのだろうか」
「……はい。神に選ばれた身を、私は喜べないので……」
だからこそ前世、リルカはヴィシャスの宮から逃げた。人間として生き、人間として死にたいと思ったからだ。
どうしてそんなに強くそう願ったのかも、転生してから気づいた。
(私には――ヒト以外になる、覚悟がない)
恐ろしい、と思ったのだ。神に召し上げられ、人間の生を超えて生き続けることが。
神の寵愛は得られるのかもしれない。でもそこに、『アイシア』が大切に思った人々はいない。死んでしまった者も、生きている者も。
『アイシア』はヒトである自分しか思い浮かべられなかった。そこから外れた自分は自分でなくなってしまう、そう感じた衝動のままに、『アイシア』は逃げた。
ただ人間として生きて死に、その先の生でまた、大切な人たちと絆を育む。そういうふうに輪廻を巡る存在のままいたかった。ただそれだけだったのだ。
それはもしかしたら、あまり賛同を得られない感覚だったのかも知れないけれど。
(前世では、神に見初められることは、基本的に栄誉と捉えられていたから……)
「……わかった」
重々しくエセルナートが頷いたので、リルカは戸惑った。何か覚悟を決めた目を、エセルナートがしていたからだ。
そうしてエセルナートが口にした言葉に、リルカは絶句することになる。
「――ヴィシャス様への拝神を、やめようと思う」
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