8.『アイシア』(3)
(逃げなくては)
ただその一念で、アイシアは走っていた。
神の宮は広大だった。走っても走っても同じような景色が続いて、本当に外に向かえているのか不安になる。
(私は、人として死にたい――神の伴侶としてではなく)
それはもはや衝動だった。神の伴侶となり、人に外れた寿命で生きる自分が、どうしても受け入れられない。
走り続け、ようやく宮から出ることができた。けれど、そこに広がった景色に、アイシアは戸惑った。
(他の宮が見えない……)
天上の楽園のような景色に見惚れることなどできるはずもなく、必死に他の宮が見えないかと目を凝らす。しかし、いくら目を細めても、それらしきものは見当たらなかった。
(ここから見えないというなら、もっと先へ行ってみなければ――とにかく、逃げないと)
また走り出す。あてもなく。
けれどどこまで行っても他の宮は見えない――助けを求めることのできる先が見つからない。
息が切れる。苦しさで頭がぼうっとする。足も満足に動かなくなってきた。
(神の世界を人間の尺度で考えていた私が甘かった)
それでも戻るという選択肢はない。
そうして走り続けて、もはや歩いているのと大差ない速さになったころ、アイシアの前に忽然と、人影が現れた。
それは美しい少年の姿をしていた。悪戯気な笑みが唇に浮かんでいた。
美しい銀の髪を揺らして、とろりとした金の目を細めて、その神は傲慢に気まぐれに手を差し伸べた。
「――必死だね。ねえ、助けてあげようか」
そこに慈悲はなかった。同情も。ただただ、事態を面白がっていることだけがわかる笑みを浮かべたその神に、アイシアは一瞬だけ迷って、賭けたのだ。
己の、未来を。
――というのが、アイシアと【英雄神ヴィシャス】、そして【戯神ティル=リル】との出会いだった。
つくづく、ろくな思い出ではない。
救世主のように現れたティル=リルも、事態をひっかきまわすの半分、アイシアの望みをかなえてくれるの半分、といった体たらくだった。……まあ、性質から考えれば、半分でもアイシアの望みを叶える方向で動いてくれただけマシなのだが。
ともあれ、ティル=リルの助力を受けたことで、主神と仰いでいた【癒しの神ユースリスティ】が眷属を攫われたことにお怒りだと知ることができて匿ってもらえたり、【死と輪廻の神ローディス】につなぎをとったりできたのだから、感謝せねばならないのだろう。
ユースリスティの宮に匿われていることをヴィシャスに漏らしたり、後のローディスとヴィシャスの争い――ティル=リルは『喧嘩』と称していた――を煽ったりした神ではあるが、それはそれとする。
ローディスの協力を得られたことはとても有難かった。アイシアが神界で人として死ぬためには、もはや彼の神に縋るしかなかったので。
ローディスはローディスで、【癒しの神ユースリスティ】を唯一として拝神するかしないかで扱える神術が大きく変わるために、泣く泣く【死と輪廻の神ローディス】に拝神するのを諦めたアイシアのことを目に留めていたらしい。……当時からそれだけ【死と輪廻の神ローディス】を拝神する人間が少なかったという証左でもあるのがかなしいところだ。アイシアは、戦争で自分にできるだけのことをするという目標と癒しの術の件さえなければ拝神したいくらいには好きな神だったのだが。
そして彼の神の協力もあり、アイシアは人間のまま、人間としての輪廻に戻った。――【英雄神ヴィシャス】が落ち着くまで転生の輪で待つように、と言われてはいたものの、まさか三千年後に転生することになるとは思ってもみなかったが。
本来なら転生前の記憶というのは、転生の輪の中で魂から剥がれ落ち無くなるものだという。しかしアイシアは体ごと転生の輪の中に入ったので、その作用がうまく働かなかったのだとローディスは言っていた。アイシアは――リルカはそれでよかったと思っているが。これで記憶が無かったらお世話になった神々に感謝を伝えることもできなかったのだし。
そう、リルカはローディスと、転生後に話したことがある。いわゆる『神託』と同じシステムを使って、ローディスが先述の謝罪を伝えてきたのだ。まだ体も満足に動かせない赤子の頃のことだった。とても驚いたが、神界で転生の輪に入る前に触れた彼の神の性格ならば不思議ではない、と納得もできた。
そうしてますますローディスへの感謝の念が育ち、転生の輪にいるときにユースリスティから助言があったのもあって、リルカはローディスを主神として拝神することに決めたのだった。
ヴィシャスとの出会いから始まる一連の出来事はできればなかったことにしたい過去だが、ローディスとユースリスティに実際に会うことができたのは大切な思い出である。
アイシアがリルカとして転生するのに一番世話になったローディスを主神とし、アイシアの頃に癒し手として活躍するのにお世話になったユースリスティを副神として拝神すると決めて、リルカは物心ついたころから動き始めた。少しでも多く、感謝の証として魔力を捧げたかったからだ。
人は体に魔力の器を持っている。
その大きさは生まれた時に決まっていて、あとはそれに応じた成長を遂げるだけのものである。
リルカはその器がこの時代の平均よりも大きい――らしい。こういうのは感覚なので、らしい、としか言えない。
前世に比べたらむしろかなり少なくなった方だと思うのだが、時代の違いというやつだろう。
器は努力によって劇的に大きくなるものではないので、つまりそれは才能だ。
リルカはその才能を――器に準じて蓄えられる魔力を、活動に支障がないギリギリまでローディスとユースリスティに捧げることにしている。
そうして、その才能を無下にしていると感じてちょっとばかり口うるさく苦言を呈してくるのが幼馴染のユハだった。
(でも、それもちょっと懐かしい)
この世界では、転生の輪を経ても似通った関係性を築く魂がある。ユハは、リルカにとってのそれだった。
前世のときアイシアの傍に居た魂が、廻りを経て、またリルカとつながりを持ったのである。
ユハの前世の前世の……いくつ前世を重ねればいいか見当もつかないが――何せ三千年も経ってしまったので――遠い前世のその人は、アイシアの幼馴染、というより兄貴分だった。そして、自分と同じ、神術を使って戦う兵士の道を選ばなかったことをもったいないとよく言っていた。アイシアの魔力は潤沢で、どの神に拝神しても大きな神術が使えることは確定だったからだ。
ユハがリルカの魔力を魔術に使うようにと誘ってくるのは、そのときのやりとりを思い出す、どこか懐かしいものだった。
――だからといってローディスとユースリスティに魔力を捧げるのをやめる気はさらさらないのだが。昔も今も、親身になって助言をしてくれているのはわかるが、アイシアにはアイシアの、リルカにはリルカの事情があるのである。
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