7.『アイシア』(2)
(……ここは……)
目を覚ましたアイシアは、自分が見知らぬ場所の寝所にいることに戸惑った。
(私は戦場にいて……それから……?)
ぼんやりする頭を必死に働かせ、ここに至るまでの経緯を思い出そうとする。
しかし、自力で思い出す前に、アイシアに声をかける人が――神があった。
「目が覚めたか、アイシア」
「ヴィ、シャス……様……」
「さすがに名の拘束は弱まったか。内と外から神力に触れて、おまえは気を失ったのだ。人間は脆いな」
起き上がったアイシアのすぐそばに手をつき、アイシアの顔を覗き込んだのは、〈器〉に降りたままの【英雄神ヴィシャス】だった。
「ここは……?」
「俺の宮だ。神が各々の宮を持っているのは知っているだろう。その一室だ」
「ヴィシャス様の、宮……。ということは、ここは神界なのですか?」
「ああ。おまえは神界の空気に馴染みやすいようだな。濃い神代の気にあてられて酔う者も多いらしいが、そういった素振りもない」
「確かに、気分が悪いといったことはありませんが……」
『違う』界だ、というのはひしひしと感じている。空気が重いのだ。まるで水の中にいるような心地がする。
「体が動かしづらいか。じきに慣れる。心配になったからな、愛の神に、神界へ人間を連れてきたときの経験談は一通り聞いてきた。その事象は人間であれば避けられないが、徐々に慣れて普通に動けるようになるということだ」
「そう……なのですか」
神がそうと言うのならそうなのだろう。アイシアはひとまず寝台から降りることを諦めた。
「それで、婚儀についてだが」
「……!」
「おまえが過不足なく動けるようになるまで待とう。連れてきたばかりの人間に無理をさせるものではないと愛の神に釘を刺されてしまったからな。それに、この『体』も返して来ねばなるまい。そのついでに一働きしてくるとしよう」
「ヴィシャス様は、本当に私を、その、伴侶に……?」
「ああ。おまえが否と言おうが、決定事項だ」
アイシアは眩暈がした。神代の気にあてられてではなく、この事態に対して。
「私は何の変哲もない、どこにでもいる人間でございます」
「だが、おれの目に留まった。おれが気に入った。諦めろと言ったろう」
「考え直してくださいませ。私に神の伴侶などというものは務まりません」
「おまえはただおれの傍に居ればいい。何かをさせるつもりはない。愛の神もそうやって人間を愛でるだろう。それはおまえたち人間の方が詳しいのではないか?」
確かに、【愛の神ラヴィエッタ】は、よく人間を神界へ召し上げる。人間を愛し、人間に恋し、その末に神界へと連れ去る――そういう逸話が山のようにある。
他の神でも人間を見初めて連れ去ったという逸話はある。神と人との婚姻も、皆無ではない。
それ自体は、神とはそういうものだとリルカは思っている。想い合っていてもいなくても、神というのは気に入った人間を神界に連れ去るものだ。神が人間に合わせて人間界で生きるというパターンはとても少ない。
だがそれは、自分の身にふりかからないこと前提での受容であったのだと、この事態に直面してアイシアは思い知った。
(私は、神界で生きていきたくはない――それ以前に、神と婚姻を結びたいとも思わない)
これが、人と神という種族の差はあれど、愛を育んだ末のことだったらまた違ったのかもしれない。しかし、実際には拉致も同然に連れ去られ、婚姻を強要されている。到底承服できることではなかった。
(でも、ヴィシャス様は私の意思なんてどうでもいいと仰る……)
ただ気に入ったから愛でるために連れてきて、婚姻する。それだけのことだと思っていると、今までのやりとりが語っている。
【英雄神ヴィシャス】は『英雄色を好む』を地で行く神でもある。これまでも彼の神が人を見初め、伴侶とし、神界に連れ去ったという事例はあった。……知っている逸話を思い返してみたけれど、当初それを拒否した者もいたことはいたが、最終的には伴侶として神界で生涯を終えている。
神界は人間界とは時間の流れが違うという。本来の人間の寿命ならばすぐに死んでしまうらしいが、神界の食べ物を摂取することで神界に馴染み、神の伴侶となることで神ほどではないが長く生きられるようになる。そのことによる悲劇も喜劇も、逸話として人間界には広まっていた。
つまりこのままだとアイシアは死ぬか、人間としての寿命を外れて生きるかしかない。
「……疲れたか? 無理をさせてはいけないな。もう少し休んでおけ。――そこに置いている食べ物は好きに食べるといい。神界により馴染むだろう」
考え込んで無言になったアイシアを、ヴィシャスは疲れによるものだと勘違いしたようだった。
気遣う言葉を残して去っていく。
残されたアイシアは、枕元に置かれた銀盆の上、瑞々しい果実がいくつも積まれているのをじっと見つめた。
そして――意を決して、その中の葡萄の粒を一つ取って、口に含んだ。
(これでもう人間界には戻れない――だけど、そもそもヴィシャス様は私を人間界に戻す気はない。それなら……)
異界の食べ物を口にするというのは、その世界の住人となるということだ。
それを承知でアイシアがそれを口にしたのは、絶望からでも、諦観からでもなかった。
えも言われぬ芳香が鼻を抜け、これまで食べた何にも勝る極上の味が舌を悦ばせる。
それに感じ入る間も惜しんで、アイシアは自分の体の変化を注視した。
たった一粒であるのに体中を満たすような満足感が広がる。そして同時に、体を包んでいた重さ――空気の抵抗感のようなものがなくなった。
(ヴィシャス様が言っていたのは、確かかもしれない……)
アイシアは神界の空気に馴染みやすい、と言っていた。それに、アイシアの体が過不足なく動くようになるまで待つ、と言っていたからには、本来神界の食べ物を食べただけでは、このように劇的に動けるようにはならないのだろう。
――これはチャンスだ。
アイシアはそっと寝台から下りた。素足に床の冷たさが伝わってくる。
部屋を探してみると、アイシアの履いていた靴が見つかった。ほっとしながらそれを身に着ける。
(去ったばかりだもの。ヴィシャス様はしばらくいらっしゃらない――もしかしたら〈器〉を返しに人間界に降りられたかもしれない)
だから、行動を起こすなら今のうちだ。
――人間として、生きて死ぬためには。
不安が浮かびそうになる心をぐっと押し殺して、アイシアは部屋を抜け出した。
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