第39話 旅路の果てに


 リセリアの両腕から伸ばす無数の細線が、地下空間の中を縦横無尽にはしる。

 ミルファとエスナは圧縮空気を使って重力を感じさせない動きで迫りくる細線を回避する。


 リセリアは右手を下に伸ばし、指先を水の中に入れた。水面に発生した灰色の帯が一瞬で直線上に伸びる。狙いはエスナだった。


「きた!」

 北側の壁際にいたエスナは待っていたとばかりにその場から跳んで退避する。

 灰色化の現象は岩壁を一瞬で灰色に染め上げる。やがて変色した部分は崩壊をはじめて、風通しのいい大きな横穴をつくった。

「よし、これで道が開けた」

 圧縮空気を放出して空中に浮遊しているエスナは、右手であごに滴る汗を拭う。


 大量の白い煙が横穴の奥から地下空間へ流入してくる。


「どうするんですか?」

 水面に立ったミルファは頭上にいるエスナに尋ねた。

「リセリアを半島の近くにある火山に落とす。ただ、どうやって火口まで連れていくかという問題はあるが」

「押せばいいんじゃないですか?」

「そうは言うが、あの防御力だぞ」

「私がやってみます。コツというものが分かって来たので」

 目を瞑ったミルファが深く呼吸する。全身の空気孔から圧縮空気を静かに放出した。

 空中に浮かんでいたリセリアの細線が水面に落ちる。水面に発生した灰色の帯が直進して、鍾乳石を巻き込みながらミルファの全身を灰色に染めた。

「ミルファ!」

「――大丈夫」

 灰色に染まった水や岩石が崩壊する中、ミルファとその周辺だけは崩壊の作用を受けず、灰色も次第に退色していった。


 ミルファの瞼がゆっくり開く。瞼の奥には灰色の瞳が浮かんでいた。


「微粒光子の特性の『存在拡散』と『可逆進化作用』。そして、マシン・ヒューマンの『形質変形能力』。それらを相互に組み合わせたのが物質を元素単位にまで形質変化させる退化の帯――『灰化現象』。教えてくれてありがとう、お姉ちゃん」

 微粒光子とは生物でありながら物質――空間や時間の中で大きさ・形・質量および運動の可能性を持つものを変える力を持つ。竜人の光を操作する能力や、マシン・ヒューマンの形質変形がその一例。それは空気が漂う空間さえ支配することも可能である。空気に溶け込み、空間を繋げることで目に見えない情報伝達網が形成される。微粒光子を宿した遺伝的に結びつきの強い者同士の意識と意識が直接的に繋がることでもあった。


「しかしまあ、研究者の頭脳というのは疲れるものなんですね」

 ミルファは頭の中に流入してくる姉の知識を切断する。背部につくった空気孔から圧縮空気を放出して、目にも止まらぬ速さでリセリアに突進する。

「やああああああっ!」

 ミルファの灰色に染まった拳がリセリアの胸部を殴る。

 今までビクともしなかったリセリアの体が岩ごと後方へ吹き飛んだ。


 ミルファは空気中に漂う分子一粒ずつに能力を作用させて共鳴振動を起こし、空間の大気ごとリセリアを殴りつける。

 ――ドンッ!

 ――ドンッ!

 ミルファが殴るごとにリセリアの体が横穴の中を転々と跳ね、二人はそのまま半島の外に出た。

 高温の水蒸気が立ちこめる白煙の世界。日差しの強い蒼穹と、地平線まで見える青海原。海面近くにまで隆起した地殻の表面から熱を帯びた大量の水泡が発生し、海面から顔を出した大小の浮島から高温の水蒸気を放出して、この地域一帯が火山帯であることを知らしめていた。


 ミルファは全身から噴き出す汗と、顔にへばりつく毛先を嫌そうに手で払った。

 海に囲まれた大きな火山の手前でリセリアが体を起こす。


 ミルファは圧縮空気を放出してリセリアに飛びつく。

 リセリアの両手がバッと上がる。

 ――ザンッ!

 細線の束が急浮上してミルファの両腕を肩ごと吹き飛ばした。


「――っ!」

 両腕の喪失感にミルファの表情が歪む。腕を欠損した体が体勢を崩して空中に投げ出される。放物線を描いて落下する最中、背部の空気孔から圧縮空気を放出して突進をはじめ、勢いそのままにリセリアの顔面を前蹴りした。


 リセリアの体が火山側へ大きく傾くが、それ以上の追い討ちはなかった。

 海水が浸る地面の上でミルファが倒れる。声すら発せないほどの激痛が両腕の根本から全身を駆け巡り、その場でのた打ち回った。


 空中に浮かんでいた血濡れの細線が凄まじい速さでミルファを襲う。


――キィン! キギンッ!

 剣に変えた両腕で細線を弾いたエスナは空中で身を翻し、圧縮空気を放出してリセリアの頭上を跳び越える。火山の斜面に着地すると、両手の上腕部を磯巾着の触手のように変形させて射出すると、リセリアの体を雁字搦がんじがらめに縛った。

「このまま火山へ落としてやる!」

 エスナは体の前面につくった空気孔から圧縮空気を一気に放出する。

 微粒光子を漏出し続ける岩が火山の斜面を削りながら火口へ近づいていく。

「ぐああああっ!」

 あと少しで火口に落とせるというところでエスナが痛ましげに絶叫する。

 リセリアの体に触れていた部分の変形物が灰色に変色していた。


 その灰色は変形物を伝ってエスナの体の方へ広がっていく。

 エスナは変形能力を行使して変形している箇所の根元を切断した。

「うぐっ……!」

 体の一部を無理やり切除した疼痛でエスナは膝を折った。


「やあっ!」

 ミルファが圧縮空気を使ってリセリアにとび蹴りを放つ。

 空中に浮遊していたリセリアの細線が高速で動き、ミルファの伸ばした左足を切断した。

「まだだああああっ!」

 ミルファは体内に残存する圧縮空気を全て放出してリセリアに体当たりする。

 リセリアの体がぐらりと揺れ、火口に達した灰色の上半身が白煙の中に隠れる。

「落ちるか⁉」

 エスナが期待の目で火口を見上げる。

 リセリアは背中を変形してつくった空気孔から圧縮空気を放出して態勢を戻す。

「私は……諦めない……」

 両腕と左足を失ったミルファは背部の空気孔から周辺に漂う熱のこもった煙を吸い込み、四肢を再生させようともがく。

「ああ、あともう少しだからな……」

 エスナは肩を上下させながら立ち上がり、全身の空気孔から吸気を始める。


 リセリアの両手が無数の細線に形を変えて二人の頭上を覆う。

 無感動だった灰色の顔が獲物を追い込んだ狩人のように口角を歪めた。

 

 ――ドゴッ!

 細線がミルファとエスナを狙った瞬間、リセリアの体が後方へ吹き飛んだ。


「ユークさんっ!」

 空中を疾走して現れたユークリウットが、淡い光に包まれた拳でリセリアを殴った。


 火口の上に投げ出されたリセリアは煙を媒介にして火山そのものを灰色に染めようとする。


「させるか!」

 ユークリウットは右手に携えていた光の槍を投擲する。

 光の槍はリセリアの胸部に深く突き刺さり、その体が火口の下へ落ちていく。


 ユークリウットは煙の中を駆け抜け、火山の内部を落下していくリセリアの眼前にやって来る。

「お前とはえんなど無いが、仲間を傷つけるというのならお前は俺の敵だ」

 ユークリウットの光に包まれた右手でリセリアを殴りつける。リセリアの落下の勢いが加速して微粒光子を漏出させながら火道を突っ切り、真っ赤に染まる灼熱しゃくねつの溶岩の中に落ちた。


 ユークリウットは光の槍を再度出現させると、リセリアが落ちた箇所目がけて投擲する。槍が侵入した溶岩の表面が大きく波打った。


「――っ⁉」

 ユークリウットは煙が漂う宙を垂直に走り、大量の煙と共に火口から飛び出た。

 その瞬間、火口から上昇していた煙が一瞬にして灰色に染まる。変色は勢いを増し、周辺の海水や地殻までも巻き込んで火山そのものを灰色に染め上げた。


 ユークリウットは青い海原に不釣合いな灰色の山を注視しつつ、空中を一歩一歩降りてくる。灰化した直後に発生するはずの物質崩壊も今回は何故か起きなかった。

「倒したのですか?」

 四肢を再生したばかりのミルファが、光の波紋の上に立っているユークリウットを見上げた。

「分からん。だが、これまでと様子が違うのは確かだ」

「確認しましょう」

 ミルファが圧縮空気を使って体を浮かび上がらせるも態勢が定まらず、圧縮空気の放出量も安定しなかった。

「ほら」

 ユークリウットがミルファに歩み寄ると手を差し伸べる。

「ありがとうございます」

 ミルファは小さく頭を下げて、ユークリウットの手のひらに自身の手を重ねる。

「素直じゃないか」

 ユークリウットはミルファのいつもと違う態度に思わず吹き出した。

「ユークさん、後でぶっ飛ばしますからね」

 ミルファはユークリウットに寄り添って空中を移動し、灰色に染まった火口から火山の中へ侵入する。溶岩の出口でもある火道もその全面が余すことなく灰色に覆われていて、光の届かない底の方には深淵が佇んでいた。

 光の波紋が空中に発生するたびに、二人の体は一段ずつ降りていく。

「真っ暗で何も見えませんね」

「これでいいか」

 ユークリウットは左手の指を広げて、手のひらに光の粒子を集めて明かりを発生させた。頭上に見える火口が豆粒ほどの大きさになった頃、二人は溶岩溜まりに到着した。生物のように蠢いていた溶岩も今では地面のように固まっていたが、その地下深くではまるで大蛇が地を這うような脈動が火山全体を震わせていた。

「人間じゃここまで来るのは無理だな」

 ユークリウットは気温と圧力の高さから体内の血液が沸騰しているような感覚に襲われる。山は灰色に染まったにも関わらず火山活動は今もなお続き、底部へ近づけば近づくほど周囲の温度が上昇していた。

 波打つ地面の真ん中にぽっかりと空いた裂け目が存在していた。

「この下ですか?」

「たぶんな」

 二人は裂け目から下の様子を覗く。

 灼熱の溶岩が蠢く中にリセリアの姿があった。


 溶岩の表面から上半身を出したリセリアは、灰色の目と口を大きく開いた状態で片手を空の方向へ上げていた。

「お姉ちゃん……」

 ミルファは沈痛な面持ちになる。一度は殺害を決意したというのに、昔から知っているその顔を視界におさめると居た堪れない気持ちになっていた。

 その様子を見たユークリウットは姉妹の時間を邪魔しないようにと沈黙に徹した。

 

 二人はふいに大きな振動に包まれる。

 灰色に染まっていた火山内の壁に亀裂が入り、亀裂の奥から淡い光が漏れ出た。

 ユークリウットは周囲を睥睨へいげいする。微粒光子がリセリアの体から溶岩を伝って火山全体に拡散している光景を見つけた。

「まだ生きてるのか!」

 火山全体が大きく震える。火道内の亀裂と微粒光子も一気に増した。

 リセリアが埋まっている付近の溶岩が大きく盛り上がる。


 ユークリウットはミルファを担ぐと、火口を目指して空中を全速力で走った。


 灰色の火山が噴火を始める。噴火の際の爆音が大気を震わせる。火口から押し出された溶岩が空中に飛び散って周囲一帯に岩の雨を降らせた。その直後、高温の火山灰や大量の岩漿がんしょうが、薄黒い火山瓦斯がすと共に山の斜面を下り、海水に冷やされて高温の水蒸気を発生させながら陸地をつくっていく。空には火口から吐き出された大量の煙によって分厚い雲が発生し、西南側に流れる風に揺られながら火山灰を半島に降らせていた。

 火山から脱出したユークリウットは空中を下るように走る。その途中、海の上を覚束ない跳躍で移動していたエスナを見つけると片手で抱きかかえる。

「降ろせ、先生が!」

「分かってる!」

 ユークリウットは上空から降ってくる火山灰と岩をかわしながら空中を走り、半島の上空に到達する。

 半島の中心地から避難するキュエリの姿を見つけた。


「先生!」

 エスナはユークリウットの腕を引き剥がすと、圧縮空気を放出して空を滑り、大地に到着する。キュエリを大事そうに胸に抱えた。

「脂汗がすごいけど大丈夫?」

「ご心配には及びません。私は先生の助手ですから!」

 エスナは努めて明るく笑った。

「……本当にありがとう、エスナ」

「……殺したのですね」

 ミルファはフィザの切り落とされた右腕と下半身が転がっている半島を見た。

「あれが俺の故郷を滅ぼした犯人だった」

「そうだったんですか……気分は晴れましたか?」

「ミルファは姉と再会できて気分は晴れたか?」

「意地の悪い回答ですね」


 ユークリウットは上空に向かって走り出し、半島全土を囲む岩壁の前にやってくる。

 大量の微粒光子は未だに空気中を漂っていた。


「これがお姉ちゃんを狂わせたもの……」

「それだけじゃない。この地球に棲む生物全ての進化を歪ませたものだ」

 ミルファは複雑な表情で微粒光子を見た。

「……ユークさん。お姉ちゃん、死にましたよね?」

「確実に死んださ。火山のおかげでな」

 ユークリウットは火山という言葉を強調して言った。

「竜人のくせに優しいですね……つい言ってしまいました。すいません」

「俺が優しいかどうかなんて自分でも分からないさ」

「優しさは他人を通してでないと得られない感情だから、誰かと一緒に生きることができるユークさんはきっと優しい人だと思いますよ」


 ミルファが目を閉じる。緊張が解けて穏やかな顔になっていた。


 岩壁の上に立ったユークリウットは半身になって半島全土を見渡した。

 アリメルンカ大陸を旅して、故郷を奪った犯人に復讐を果たして、親の代わりにこの世界の深部に触れてはみたものの、自分自身にとってはわだかまりが多少消えただけで、得るものは少なかった。全ての面において受動が強く生産的ではなかった。だが、それでも無意味ではないことは確かだ。竜人が、人間が、マシン・ヒューマンが一同に介して差別の無い生活を送ることができたことは失われた故郷を見つけられたことに他ならない。顔の表面に浮かぶこの流紋も、いつかは誰も気にしなくなる日がくるかもしれない。


「……いや、違うな」


 ユークリウットは頭を振る。漠然とした未来の到来を待つのではなく、確固たる意志を持って行動することが人類の未来へ繋がる。極小の光の粒が集まって色々な形をつくれるのなら、人の思いも集結すれば何かの形にすることができるだろう。


「さよなら、親父。今までありがとう」


 心中で父の葬送をようやく終わらせたユークリウットは仲間と共に進化の中心地を後にした。


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