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ながれぼしのゆくえ(奏良)

 カーテンの隙間から白い光が射し込んでいた。

 ほんの一ヵ月足らずで、すっかりと身に染みついた朝の光景だった。

 奏良はベッドの上で上半身を起き上がらせて、視線を誘われるままにカーテンの合間から零れる陽光を眺め、それから壁に掛けられたカレンダーの向日葵に目をとめた。

 愛しくて胸が締め付けられるようだった。


 とてもとても満たされていて、切なくて、悲しくて、嬉しい。

 自分の中に残された余韻を抱きしめるように、奏良は両腕で自分の胸を抱きしめた。


 奏良には理由がわからない。

 なぜ?どうして?

 何もかも失ってしまうのに、大切なもの全てをなくしてしまうというのに。

 どうして葵衣はこんなにも温かな想いを抱いているのか。

 ただただ、胸の内を満たす幸福な気持ちが信じられなかった。


 奏良はじっと窓辺から零れた光を見つめて考えていた。

 その光を愛しく切なく感じる理由を。心惹かれる理由を。


 まだ、間に合うかもしれない。


 何が間に合うのか。何をどうしたいのか。そんな具体的なことまでには思い及んでいない。奏良はひたすら祈るような、願うような気持ちで考えていた。

 このまま何もせずに諦めることができなかったのだ。


 窓辺を見つめる奏良の背後で、もぞりと人の気配がした。

 身を起こしたのだろう勝真は、しばらく何も言わずに奏良と一緒に、カーテンの間から僅かに差し込んでいる光を見つめていた。


 トクン、と胸が疼いた。

 その瞬間に、奏良は確かに葵衣がまだ消えてしまってはないのだと確信した。


 奏良には、葵衣のことがよくわかった。葵衣と一緒に過ごす間は、葵衣の感情は全てダイレクトに奏良に伝わってきたからだ。

 奏良は幼い頃から自分の感情を見て見ぬふりをして生きてきた。だから葵衣の多彩な感情が胸に灯っても、その複雑な意味を読み解けないこともたくさんあった。でも、そのうちの幾らかには、葵衣と共に過ごしている間にわかるようになったものもある。

 葵衣が好きなもの。大切なもの。嬉しいこと。奏良は葵衣の本心をたくさん知っている。

 窓辺の光が愛しく切ない理由も、きっと。


「向日葵を、見に行こう」


 思考に耽って、夢の中にいるような現実感の薄い唇から意図せずぽろりと思い付きが零れた。

 この世界をどこまでも慈しんでいた葵衣に。目に映る全てのものが色鮮やかで、輝いていて、喜びで溢れていた葵衣に。

 もう見られることはないのだと懐かしんで、カレンダーの向日葵畑を眺めていた葵衣に。

 見せてあげたいと思った。


 奏良は我に返ったように勢いよく振り向いて、勝真に詰め寄った。


「葵衣さんに、向日葵をみせてあげよう。ねぇ、勝真さん」


 まだ、ここにいるんだ。


 それを言葉にはできずに、ぎゅっと胸元を握りしめて、懇願するように勝真を見上げた。

 必死だった。何の力もない奏良が、ただ一つだけ見つけた葵衣のためにできることだったから。


 奏良は、葵衣と出会い、物思うことを教えられたようなものだった。

 不安に苛まれずに過ごすことも。人に大事にされることも。普通なら知っているだろう基本的な生活上のことも、初めて教えて貰った。

 楽しい、嬉しい、温かい、満たされた想いも。

 心配で、大切で、愛おしくて、幸せでいて欲しい想いも。

 笑う時の顔の動かしかただって、葵衣の真似をして身につけたのだ。

 全部、葵衣に出会うまで知らなかったことだ。


 今まで出会った誰よりも。生まれてからずっと関わりがあったはずの実の母親なんかよりも、ずっとずっと葵衣が教えてくれたことの方が多い。

 たったのひと月に満たない期間に、奏良は葵衣からそれだけの愛情を受け取っていた。

 大切な人のために、何かをしたい。

 そう思う気持ちを、奏良は葵衣に教えられた。それは今、奏良の中で強く燃え上がって、心と体を突き動かしている。

 きっと、葵衣が流れ星のように降ってきて、奏良へと宿った時のように。


 勝真は奏良の必死な様子を見て、ほんの少しだけ笑って静かに頷いた。



 カーテンの間から射し込んでいた陽光は、建物を出た瞬間から眩く全てを照らしていた。

 見知った道を抜け、見知らぬ道を案内されながら電車に乗る。

 混雑していた電車が、郊外に向かうにつれ人が疎らになっていく。車外に流れる景色は、気が付けば窮屈な街並みから長閑で広大な開けた空間になっていて、どこか懐かしくほっとする光景だった。奏良は、葵衣が好きだったものをまた一つ知ることができたと思った。

 多くの人間とすれ違ってもさほど恐ろしいと思わないのは、奏良が成し遂げたいことで頭をいっぱいにしていたからかもしれない。

 他人の目なんてどうでもいい、誰にどう思われたっていいとすら感じていた。

 ただ、願っているのだ。

 どうか、一つでも多く。葵衣に好きなものを贈りたいと。


 幾つか電車を乗り継いで、小さな寂れた駅からタクシーに乗った。普段はバスを利用していたが、思い付きの行動で出発したから、待ち時間が生じるらしい。

 勝真が車を出すこともあったが、葵衣は電車やバスのほうを好んだと聞いて、奏良は葵衣の気持ちがわかって微笑んだ。

 距離感だ。葵衣は勝真と肩を並べて一緒にゆったりした時間を過ごす遠出が好きだったのだろう。


 嬉しいね、葵衣さん。


 奏良は声に出すことなく、葵衣へと心の中で語りかけた。

 胸に灯った星の輝きはとても小さくて、もう感じ取ることはできないけれど。きっと葵衣は喜んでくれている。

 それが嬉しくて、奏良は温かな自分の胸にそっと手を当てた。



 辿り着いた目的地は、奏良が今まで訪れたことがないような広大な場所だった。

 イベントの時期を外れた平日の昼前で、どこまでも続くかのような向日葵畑には人は疎らだ。入り口をくぐって幾つかに分かれた道を進めば、ほとんど人影は見えなくなった。


 青く高い空に、陽光を浴びた雲が白く輝いている。道の両脇には青々と萌える葉を茂らせた背の高い向日葵が、一斉に空を仰いでいる。

 この世の全てを埋め尽くしているのではないかと思えるほど、遠く伸びた向日葵の道。

 そんな光景に、奏良は初めて花を、空を、大地を綺麗だと思った。

 葵衣の愛した色鮮やかな世界が、奏良の前にキラキラと広がっていた。


 綺麗だね、葵衣さん。


 奏良は誘われるように足を速めて、並んでいた勝真を追い越して周囲を見渡した。


 ねえ、綺麗だよ。


 その美しい光景の全てを目に焼き付けるように、つぶさに見つめる。

 愛おしくて切ない。ほんの少し葵衣のその気持ちが理解できた気がした。


『ありがとう、奏良くん』


 奏良の中で、葵衣は嬉しそうに、穏やかにそう応えた。

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