たからもののよる(葵衣&勝真)

「自分はどうなってもいいから、だって」


 微笑ましさに笑いが零れた。

 何もかも、もうすっかりと受け入れることができていた。

 だけどきっともう、大丈夫。葵衣にはそう思えていた。


「いい子だよね」


「ああ」


 久しぶりに葵衣と言葉を交わした勝真の表情は凪いでいた。

 お互いに覚悟はできているのだ。

 名残惜しくても、ただ息をする間にだって時間は流れて行くから。


「かっちゃん、奏良くんをお願いね」


 視線が絡むと、どこまでも心が通じ合っている気がした。


「もちろんだ」


 もう一度感じることができた手の温み。抱きしめた身体の、絶対的な安堵感。ひとつひとつが、葵衣の心に染みてゆく。

 得られるはずのなかった宝物みたいな思い出が増えて行く。

 なんて贅沢なのだろう、と葵衣は微笑んだ。

 一度目の別れは唐突過ぎて、何一つ伝えることはできなかったから。


「奏良のおかげで、もう一度葵衣に会うことができた。どれほど礼を尽くしても足りない恩義がある」


 葵衣の背を撫でながら答える勝真に、葵衣は喜びを覚えていた。

 想い合って、通じ合って、理解し合える。それは奇跡みたいな幸せだった。


「あのさ、本当にちょっとだけど、勝真の名前の保険金、奏良くんの生活の足しにしてね」


 葵衣が大真面目にそう伝えると、勝真は肩を震わせて笑った。


「心配しなくていい。本当は、大学を出た時に家を買うつもりだった。結果的に葵衣に節約させられた資金が手つかずだ」


「ええっ、聞いてないよ?」


「ここに住み続けたいと言っただろう?」


「そうだけど」


 むっと唇を歪めて、それから葵衣はふっと頬を綻ばせた。

 こうやって、伝え合うことができるのもきっと最後なのだ。



 葵衣がいつ力尽きても大丈夫なように、二人で寄り添って横になった。

 葵衣にも残された時間はわからない。

 ただ、きっと、ほとんど残っていない。奏良も、勝真も、それを感じ取っている。


 いつでも勝真の存在が感じられる二人で暮らすには狭い部屋。身を寄せなければ収まりきれない狭いベッド。

 たくさんの思い出と幸福に溢れる葵衣の大好きな場所だった。


 物件見学をする時、二人で泊りがけで出かけたのが初めてで。ホテルのツインルームで散々睦み合った後、ひとつのベッドで一緒に眠ったのがものすごく幸せで。

 立地上や賃貸の条件なんかで一応候補にあげていたこの部屋を見た時に、いつでもくっついてられるという下心に駆られて二人で即決した。

 ドキドキしながら見合わせた顔は、まるっきり同じことを考えているのが駄々洩れで。それが恥ずかしくて嬉しかった。


「初めて見た時に、ここならずっと一緒に眠れるんだって思ってさ」


「そうなっただろう」


 お互いに不器用で初々しかった頃。離れずにいられることが嬉しくて、目覚めて側にいられることが幸せだった。

 あれからずっと、そんな幸福な時間が続いていった。


「うん。嬉しかったんだ、毎日」


 たくさんの思い出が過った。

 どれも全て、葵衣にとっては大事な大事な宝物だった。


「かっちゃん、俺を選んでくれてありがとう」


 心から、言葉が溢れ出した。


「たくさん、愛してくれてありがとう。俺はね、世界で一番幸せだったよ。きっと、誰にも負けない」


「ああ」


 勝真の静かな相槌が嬉しくて、葵衣の頬は緩みきった。

 そうやって、いつも話を聞いてくれた。安堵をもたらす声だった。


「俺の方がずっと、葵衣に幸せにされていた」


 葵衣の背を撫でて、勝真が微笑む。

 それは葵衣にとって最高の賛辞で。

 ふわふわと胸の内から、笑いが零れた。


「ふふっ、嬉しい。大好き、勝真」


 伝えることができるのも、受け取ることができるのも、奇跡だ。

 愛し気に背をトントンとあやし甘やかされて、愛しさとともに込み上げる想いに、ぐしゃりと眉根が寄った。


「………ごめん、ごめんね」


 吐き出した言葉は半ば嗚咽に埋もれた。


 辛い思いをさせてごめん。置いて行ってごめん。一緒に生きていけなくてごめん。

 胸に秘めていた想いは、ほんの少し言葉にしただけで涙に溶けた。


「ああ」


 勝真は静かに頷いて、涙で息を詰まらせた葵衣を優しく撫で続けた。

 大丈夫、とは言わないのが勝真の誠実さだと、葵衣にはわかった。

 大丈夫でない姿を見てきて、わかりきっていた。


「葵衣は世の理を超えてまでここに戻ってきてくれただろう」


 しばらく宥められて葵衣の呼吸が落ち着くと、勝真は穏やかに言葉を紡いだ。


「だから、十分だ。姿が見えなくても、声が聴こえなくても、触れることができなくても。葵衣が戻ってくるなら俺の元だとわかった。だから、十分だ」


 その静かに紡がれた言葉は、永遠の別れなど存在しないかのようで。

 愛しくて、恋しくて、切ない。


「俺、勝真に幸せに生きて欲しいよ。幸せになって。………っ、俺のこと、」


 ―――忘れてもいいから。


 ずっとそう思ってきたはずなのに、その一言は声にならなかった。

 止まった涙がまた零れる。

 もう未来のない想いに囚われて生きて行くよりも、忘れたほうがいい。

 いつか誰かを愛して愛されて、新しい幸せを築いていってくれたなら、その方がいい。

 葵衣は勝真に、そう願っていたつもりだった。

 もう自分には叶える術がないのだから、誰かに叶えて欲しいとすら思っていた。

 けれどどうしても、言葉にすることができなかった。


 勝真はふっと小さく笑いを零して、泣きながらはくはくと息をする葵衣の顔をじっと見つめた。


「俺は葵衣以外を愛せないだろう。たった一人そんな相手がいただけでも奇跡だった。だいたい俺の葵衣以上に、可愛くて愛しい人間なんていない」


 捨てきれなかった想いを拾い上げられて、葵衣は困ったように眉尻を下げた。

 勝真の幸せを何よりも願っているのに、勝真に愛されて嬉しいと思う矛盾にどうしようもなく惑って、それでも葵衣の頬を優しく拭った手に、甘えて頬を寄せた。


「葵衣に心配をかけないようにやっていくさ。いつ見られてもいいように」


 すり寄った頬は、柔く掌で包まれて撫でられる。その心地よさに、今日くらいはこのまま甘やかされておこうか、なんて。葵衣は屈してついぞ思考を放棄した。



 それから二人は、眠るまで他愛のない思い出話を重ねた。

 穏やかで愛おしい、とても幸せな夜だった。

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