はざくらがざわめく②(勝真)
「…………葵衣さんに、心配かけちゃった」
ぐずりと鼻をすすりあげながら
奏良が消え入りそうな声で呟いて、涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げてぎこちなく笑った。
「そうか」
勝真は抱いていた奏良の肩をぽんぽんと叩いて、一言だけ返す。
人間の繊細な部分に触れるのは得意ではない。
元より人の心の機微には疎いし、他人の内面を伺うことをしない性質でもある。
奏良が無理をして笑っていることは理解はしている。
ただ、そんな時に人の心を和ませる術をもたない。気休めを言えるような器用さもなかった。
理屈でものを考えることしかできない。それが冷たいだとか、情に欠けるとか評されていることを知っている。
けれど、理屈が通らない『真実ではないこと』に対して、嘘をついて何になるのだろうか。
そう思うのも自分の内にある傲慢さのせいなのかもしれないと、勝真はそう考えている。
正解は常に、自分の中にしかない。
奏良がどうしたいのか。どうして欲しいのか。それは奏良にしかわからないことだ。
人の思考には常に『自分の認知』というバイアスがかかっていて、一人一人にとって見えている世界は異なる。
勝真の両親におもねている人間の中にも、本当に彼らを尊敬している者たちがいて、彼らの傲慢さが気高さに見えているのだ。
勝真は奏良の正解を知らない。
何を言えば、何をすればいいのかがわからない。
『かっちゃんは、優しいよ』
ふと葵衣の声が思い浮かんだ。
『そうやって考えてくれるのが、優しいんだよ』
それはかつて聞いた言葉だったのか、ただそう言うのだろうと考えたのか。勝真には判別がつかなかったけれど。
葵衣がそう言うだろうというのは、疑いがなかった。
葵衣は信じているのだ。
勝真のことを信じて頼っている。声が聴こえなくても、姿が見えなくても、それだけは真実だとわかっていた。
「葵衣は、したくて心配したんだ。奏良くんが申し訳なく思う必要はない」
奏良は目を瞬かせ、その度に目の端からぽろぽろと雫を落としながらふっと頬を緩ませた。
「そっか」
両手を胸に当て、自分を抱きしめるかのようにして奏良は微笑んでいた。
硬く強張っていた身体も表情も、すっかりと緩んだように見えた。
「今までたくさんね、悪いことばっかりしてきたんだ」
奏良はぽつりと語った。あどけなく幼い表情を苦渋に染めて、息を詰まらせながら、絶えず涙を零しながら。
「家の近くのスーパーやコンビニでは出入り禁止になるくらい盗んできて、町内で警戒されるくらい万引きの常習犯だったし。お金やご飯をくれる人の頼みをきいたりさ。売れるってわかったら、オッサンやオバサンに媚びて身体売って」
震える声が懺悔を紡ぐ。
それは多分、奏良自身にはどうしようもなかったのだ。そう思えるほどに自嘲じみたか細い声だった。
「殴られたり、それ以上に死にそうな目にあうこともあったけど、でも俺が悪いんだからどうしようもないよね」
奏良の言葉は、勝真には理解が及ばない。
想像することはできても、そういう環境に置かれる子どもがいるのだと知っていても、裕福な生まれ育ちである勝真には真に理解することはできないのだろう。
「ならば、奏良くんはどうしたい?」
勝真は静かに奏良に問いかけた。
どこか遠くを眺めていた奏良が、ふっと顔を上げて勝真を見上げる。
「どうしたい………」
初めて問いかけられたように、奏良は目を見開いて呆然としていた。
「君の年ごろの子にそう言うのもおかしいのかもしれないが、今は俺が君の保護者だろう。君に非があれば責任を負うし、和解が必要なら仲裁しよう。だから、君は自分がどうしたいのかを考えればいい」
「そんな、保護者って」
「言っただろう?奏良くんは俺と葵衣にとって恩人なんだ。君が思うように生きていけるように最大限の手を尽くそう。何よりも、葵衣がそう望んでいるからな。俺は、葵衣の望みは何だって叶えたい」
「………っ」
奏良の顔がふっと綻んで、青白かった頬に赤みがさした。
「ふふっ。葵衣さん、照れてる」
自分の胸に手を当てて、奏良が柔らかに微笑んだ。
照れてそわそわと落ち着かずに挙動不審になる葵衣の姿が想像できて、勝真も唇の端を綻ばせた。
「………わからないけど」
奏良がぎゅっと目を瞑って、不安そうに言葉を紡いだ。
「俺、ちゃんと謝りたい。謝って、迷惑をかけたぶんのお金、返せるようになりたい。働いて、お金貰えるようになって、返せたらって………」
ただそれだけのことを、奏良は遠い夢のように語る。
「そうか。応援しよう」
勝真は立ち上がり、奏良に手を差し伸べた。
照れたようにぎこちなく笑って、奏良がその手へ手を重ねる。
力強く萌える葉桜が、ざわりと音を鳴らして影を躍らせた。
帰り道、マンションの前で勝真は歩いて来た方角と反対方向の道へとちらりと視線を投げかけた。
まだその道を歩く気にはならなかった。
血肉が洗われて、今ではその痕跡もほとんど残っていないだろうそこに、遥か遠目に花束が手向けられているのが見える。
削れた塀に、当時はうっすらと血痕の影が残っていた。あの光景を思い出すだけでも狂おしくなる。
そこに葵衣がいないことを知っていても。葵衣の想いを知った今でさえ。
まだできれば直視したくない事故現場から目を逸らして、勝真は思い出で溢れかえる自宅へと足を運んだ。
別離の気配は刻一刻、色濃く満ちていっていた。
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