はざくらがざわめく①(勝真&奏良)

 葵衣が自分に望んでいる姿を、勝真は知っていた。


 きっと無意識なのだろうが、葵衣の中の普通だとか幸せな生き方は、愛情を注いで葵衣を育ててきた彼の両親の姿にある。

 父親は家族のために働いて、母親は家族のために家庭を守る。

 現代ではもう既に古臭い価値観なのかもしれないが、その中で支え合い、互いを大事にし合った生活が、葵衣にとって心地良いものだったのだろう。


 だから葵衣は、父のように家庭を支える収入を得る働きが出来なかったことを悔しがるし、就労しないという選択肢を持っていない。それでいて母のように、家庭内の役割を引き受けて、自分は妻だと言って頬を染める。


 正直、勝真は関係性を現す言葉などどうでも良かった。ただ、葵衣が喜ぶ形だけが正解で、実際に支障があること以外はそれでいいと思っていた。

 勝真の家族観なんていうものは、最初から壊れていた。常識が人の数ほどあることを知っていたし、寧ろそれを逆手にとって利用することを考える程だ。幸せな未来なんていう空想を描いたこともなかった。

 過去という過程をベースにして、現在はどうするべきか。どんな武器や宝を持っていて、どう有利にことを運ぶか。全てが計算でしかない。

 ただ、勝真の判断基準では優先順位のてっぺんに葵衣がいるだけだった。


 時々その価値観さえも、身についた合理主義の中に沈んでしまい、至らない己を腹立たしく思うこともあった。

 葵衣が勝真を配慮して尽くしてくれるから、それを当然のように享受している。それに度々気づいては、勝真は自分の身に潜んだ傲慢な化け物の血筋を恨み、深く反省してきた。

 当の葵衣はそんな勝真の姿に気づかずに、真っすぐに想いをくれる。

 勝真にとって、葵衣は幸せの象徴だった。

 葵衣のためになら何だってしたかったし、不足も多くあったけれど、そうしてきた。


 だから、どうすれば葵衣が安心できるのかを理解していた。

 身体的に不調がないこと。社会生活を送ることができること。生活が危なっかしくないこと。心穏やかでいられること。

 葵衣の大丈夫の基準は、そういう所にあるのだ。



 家の中での生活が難なく行えるようになった後、勝真は体力づくりに取り掛かった。

 幼い頃からパーソナルトレーナーの監修の元で運動していたし、その後も自己でプログラムを組んで一定の運動量を保持するように習慣づいていた。

 それゆえに元々筋力も体力もある方だった。二度も寝込んで衰弱し、筋力が衰えてしまったと言っても、培ってきた知識を実行して最短で再獲得することができでいた。


 夜のマンションの敷地内から駐車場。建物の周囲。その辺りを何度か奏良と散歩した。

 葵衣がいなくなって以降、勝真にとって一人で家を出るのはあんなにも焦燥に駆られることだったのに、葵衣が奏良の中で眠るのだと思うと安心できた。


 奏良と物理的に離れることは不安だった。

 一人で家に閉じこもって生活をしていた数週間と同じで、自分の知らない間に葵衣がいなくなってしまうのではないかと思うと恐ろしかった。


 それならば、奏良と一緒に行動範囲を広げればいいのではないかと思った。

 そう思ったから、奏良を買い物に誘ったのだ。

 勝真は奏良のことを、少しも考えてはいなかったのだと悔いた。



 マンションを離れて間近に他人とすれ違う路地に出てから、奏良の様子は明らかにおかしかった。

 不自然にそわそわとして、緊張し、こわばった笑みを浮かべている。


 勝真は初めて奏良と話した日のことを思い返した。


 まだ寝て起きてを繰り返していた頃で、記憶が少しぼんやりとして現実感がない時期だった。

 だがあの時この少年は、屈託なく笑いながら、死のうとしていたと言った。

 そうだ、死ぬつもりだったと言ったのだ。


 やせ細った小柄の成長不良な容姿。葵衣がたびたび悲しそうな目で見つめていた傷だらけの身体。好奇心旺盛で、それなのに無知を恥じて零れる自虐の言葉。

 勝真は奏良の身の上をある程度察していた。


 けれど、家の中での奏良の様子は穏やかでとても楽しそうで、葵衣になついて慕う姿が微笑ましくて。

 葵衣や勝真を慮る優しさは、当然のように奏良が最初から心が満たされて育った人間なのだと錯覚するほどに自然なもので。

 奏良自身が命を投げ出したいほど傷ついた人間であることを微塵も感じさせなかった。



 怯える奏良を人通りの少ない遊歩道まで連れて行き、まれにしか先客がいない空っぽのベンチに座らせた。

 明らかに混乱して怯えている奏良に、かける言葉を見つけられなかった。下手な言葉をかけてしまえば、逆に傷つけるかもしれない。最適解が見える程、勝真は奏良を知らなかった。

 だからまずは、落ち着かせるしかないと思った。

 話したいことなのか、触れられたくないことなのか、それすらも奏良が冷静にならなければわからない。

 葵衣が好きだった桜並木の清浄しい雰囲気が、花を落として尚も萌える緑の力強さが、奏良を落ち着けてくれるのを待った。


「奏良くん……」


 傍らでぽつりと声が響いた。

 視線を向けると、不安そうに揺らいだ瞳が縋るように勝真を見上げて、ぐっと眉根を寄せた。

 ほろほろと音もなく、花びらのように散る涙はどちらのものなのだろう。

 ああ、きっとどちらもだ。


 そうだな。葵衣は大事な人間が傷ついているのを見過ごせるわけがないな。

 それだけ、この子のことが大事なんだな。


 勝真は視線が絡んだほんの数秒で葵衣の真意を理解して、軽く頷きかえして愛しい肩を宥めるように抱いた。

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