ひるのひかり②(奏良&勝真)

 通りすがる大人がちらりと視線を投げかける。それだけで奏良の背中は竦みあがった。

 呼吸はじっとりと重く、視線は自然と地面へと向かう。

 緊張で心臓がバクバクと鳴り響いた。

 奏良は、今まで自分がそんな風に感じていたことを初めて自覚した。


「どうした?」


 奏良の半歩前を歩く勝真が、ほんの少し眉根を寄せて奏良の背を撫でた。


「うん……ごめんね。久しぶりの外歩きで緊張してるみたい」


 にこりと笑顔を貼り付けて答える。その頬が引きつってしまっていることは、奏良自身も容易にわかった。


 今は何も悪いことなんてしていないはずなのに、湧き上がる罪悪感に喉がカラカラに乾いた。すれ違う人間が自分を糾弾しないか不安で怖ろしくて、落ち着きなく視線がさまよい続けた。


 勝真はじっと奏良の様子を見やって、何も言わずに手を引いて歩き出した。

 不穏な緊張感の中で、握られた掌の温もりがじんわりと奏良の心を励ましてくれる。それを頼りに、奏良は無心に足を動かす。



 昼間の住宅街沿いの小道は、人通りは多くなかった。団地を囲んだ塀やマンションに続いて幾つかのマンションが立ち並び、その一階に小店が連なっている。

 ありふれたどこにでもあるような景色だ。けれど、これが葵衣が慣れ親しんだ世界なのだと思うと、奏良は不安でも怖くても知りたいと思った。

 おずおずと顔を上げて周囲を見渡す。盗み見ては耳の奥に心音が鳴り響いてますぐに俯く。


 奏良が昔から見てきていたモザイクの向こうの世界は、葵衣と出会って奏良が初めて知ったキラキラと煌めいた景色を遮っていた。心躍ることもなく、美しいものもぼやけて、喜びを知ることもない。ただ、ぼやけて濁った景色だけが奏良の目の前に広がっていた。

 だけどそれゆえに恐ろしいものは見えず、不安に焦ることもなく、悲しみも苦しみも痛みも全てぼんやりとしか感じ取らなかったのだ。



 どうしたらいいのかわからない。

 自分の生きてきた道が。犯した数々の罪が。悪行が。この世界から全て消えてしまった訳ではないと思い出して。許された訳ではないのだと思い出して。

 奏良は、自分が息をしていることすら罪なのではないかと胸が詰まった。


 それでも知りたいし、見せてあげたい。

 葵衣が愛した景色だから。

 大事な人にもう一度見せてあげたい。分かち合いたい。

 自分が何かをそんな風に強く求めることがあるということも初めて知った。


 恐れ、惑い、不安の中で顔を上げる。

 明るく照らし出された世界が、目の前には広がっていた。

 じわじわと切なさを感じ取る。

 流れ星が照らし出した奏良の世界は、以前と何も変わらないはずなのにじめじめと曇ってはいなかった。そこににじみだすようなほんの少しの嬉しさが芽吹いてゆく。輝く何かを見つけては、本当にほんの少しずつ。



 わずかに肩の力が抜けたのもつかの間。なだらかに近づいていた奏良の肩が跳ね上がった。

 見開いた目を隠すように歩道のアスファルトへと視線を逃す。押し殺した呼吸が苦し気に呻くように喉を鳴らした。


 ただ、目が合っただけだった。知らない人だった。

 けれど、コンビニの前を掃除している店員と視線が絡んだ瞬間に、奏良の頭の中は恐怖で一杯になった。


 奏良がまだ小さい頃、空腹に耐えかねた時に食べるものを手に入れる術は盗むしかなかった。

 殴られることも、罵倒されることも、侮蔑されることも、自分が悪いのだから仕方ない。

 怖いのも、悲しいのも、痛いのも、惨めで恥ずかしいのも、自分が悪いのだから仕方ない。

 警察や教員や児相の職員は、憐憫の目で見てくれるかもしれない。

 でも、そうさせたことは許されず、家に帰れば母や同居者の折檻が待っている。


 奏良の奥深くに根付いた記憶は、一瞬で世界を真っ黒に塗りつぶした。


 

「奏良くん?」


 腕がぐいっと引っ張られ、奏良は目の前へと意識を向けた。

 けれど、ぼんやりと見えている景色の意味を理解できるほど余裕がない。


「ごめんなさい……大丈夫です」


 なんとか紡ぎ出した声は消え入りそうで、微笑みをつくったはずの頬が震えていた。


「………」


 勝真はじっと奏良を見つめたあと、また少し奏良との距離を詰めて歩き出した。


 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 言葉にならない声が思考力を失った頭の中を巡る。それを声に出すのは奇行で、ダメだということは学んでいた。だから唇を噛み締めて耐えた。


 優しく力強い手のぬくもりが、離れてしまうことが怖い。だから、離してしまいたい。けれど、離したくない。


 この人も、奏良がこんなにも浅ましい人間だと知れば軽蔑するだろうか。騙されたと憤慨するだろうか。気味が悪いと侮蔑するだろうか。それとも、関わる事すら不快だと記憶から抹消してしまうかもしれない。


 震える唇を叱咤してひたすら無害な笑顔を貼り付けた。怖いから、ただただ笑うことしかできない。それだけが自分を守る最後の砦であるがごとく、奏良は何も考えられない頭で必死に笑った。



 トン、と肩を掴まれて為されるままに腰を下ろす。ぎこちなく周囲を盗み見ると、そこは奏良が葵衣と出会った日に座った遊歩道のベンチであることに気づいた。

 ほんの少し我に返って目を瞬かせる奏良をのことを、隣に座った勝真はただ見守っている。

 奏良はどうしていいかわからずに、そわそわと視線をさまよわせた。恐怖が薄まると、その分胸の中は不安でいっぱいで、何か喋るべきだと思うのに言葉にならない。

 勝真がふいと視線を街路へと向けたのにつられて、奏良もその方向を見上げた。

 濃い緑色の木の葉が風に騒めき、暖色のタイルの上で色濃く揺れる影の形を変える。木漏れ日が想像もしないタイミングで眩しく視界に光を灯して、自然と目を眇めてしまう。

 歩道に間隔を開けて数個置かれているベンチには他の客の姿はない。人が通りすがるのもほんの時折だった。


 じっとりと汗ばんだ肌を、心地好い風が冷ましてゆく。


「桜が……」


 懐かしそうに目を細めて、勝真が呟いた。


「春になると満開の桜並木になる。広くはないから大規模の花見客は訪れなくて、夜になるとベンチも空いているから、毎年ここで花見だ」


 春の桜が思い出せなくて、奏良は青々しく萌えた木の葉をじっと見つめた。

 葉擦れの音の心地好さ。美しい光と影。清々しく吹き抜ける風。


「奏良くん……」


 自分の唇から、心配そうに自分の名前が零れるのを聴いた。

 温かい、とても温かくて心地良いもので全身を包まれたような心地がして、奏良の目からはほろほろと涙が零れた。


『そっか。ここは葵衣さんのお気に入りの場所だったんだね』


 陽だまりよりも温かな星の煌めきに抱かれて、奏良は心から安堵していた。

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