ひるのひかり①(奏良&勝真)

「あ、葵衣さん、笑ってる」


 奏良は雑誌のページをめくる手を止めて呟いた。

 微睡まどろみの中で嬉しそうに笑う葵衣の満ち足りた気持ちが、胸の中を温かく染める。

 目にするもの全てが鮮やかにキラキラと輝く。

 昼間の星の光は、直接目に見えなくても、この世に何一つ嫌な事なんてないかのように眩く世界を照らしていた。


 この満ち足りた穏やかな気持ちは、今やすっかりと奏良の身に馴染んでいた。

 葵衣に出会うまでの奏良は、こんな安らかな時間の存在があるなんて知らずにいた。

 ただ立って息をしているだけでも、こんなに生きていることが容易いと思えたことはなかった。


「そうか。ありがとう」


 奏良が見上げると、勝真は柔らかに目元を緩めて空の頭を一つ撫でた。

 それを、嬉しくてくすぐったく感じてしまうのは、奏良であり葵衣でもある。


「葵衣さんは、嬉しいんだね。勝真さんの声が聞けて、すぐ側で見ていられるから。だから、安心してうとうとしちゃうんだ」


 奏良は、伝えたかった。

 それだけが、こんな風に満ち足りた輝かしい時間を与えられたことへの、恩を返せることだと思った。

 葵衣はまだ奏良の中に留まっている。表に出てくることはほとんどなくなってきて、話ができることも減ってきていた。けれど、奏良の胸の内では葵衣の感情の片鱗が輝いている。


 奏良は、葵衣を失うことを恐れていた。

 誰よりも優しく温かく輝かしい、そんな世界を奏良に教えてくれた人。心から奏良を大事にしてくれて、奏良のことを考えてくれる人。

 今だって、いつ消えてしまうのかと不安だった。

 だけれど、奏良は葵衣がまだ自分のなかに宿っていることがわかる。見えなくても、話ができなくても、ほんの少しだけその想いを感じ取ることができた。


 だが、自分以上に葵衣を失うことを恐れているであろう勝真には、葵衣の存在を感じることができず、存在していて欲しいと願うしかない。

 奏良よりもずっとずっと不安で仕方ないはずだ。奏良が思い知れないほどに。


 だから、奏良はいつも言葉にするようになった。

 葵衣がちゃんとここにいること。葵衣が安らかで幸せそうにしていること。

 葵衣が勝真のことをとてもとても愛していること。


 それを聞けば勝真は嬉しそうに穏やかな顔をして、それを感じた葵衣は更に幸せそうに笑うのだ。


 満たされているのは葵衣の心なのか、自分の心なのか。

 境界を曖昧にした胸の中は、とても温かで、切なくて、幸せで。

 奏良は自分がここに存在できることを、嬉しく思えた。



「一緒に買い出しに行ってみないか?」


 そう提案されたのは、勝真の日常生活がすっかりと滞りなく過ごせるようになった頃だった。

 出会った時の衰弱を感じることはなく、眠っている時間も長くはなくなった。何かをする際に休息を挟む必要もなく、空いた時間では奏良にあれこれと色々なことを教えたり、世話をやいてくれるようになっていた。

 体力づくりのために、何度か自宅周辺を一緒に歩いたりもした。

 そろそろ近隣へ出かける自信ができたのだろう。


 奏良は、この近辺を良く知らなかった。いつもふらふらと向かっているのは道路や公園や怪しげな夜の裏路地なんかで、住宅街に立ち寄る用事などほとんどなかった。この近辺の大通りくらいは把握していても、その他のものはわからない。

 知りたい、と奏良は思った。

 葵衣が生活していた場所。葵衣の思い出が詰まった場所。そんな場所を知りたいし、葵衣にも見せてあげたい。


「うん」


 期待に満ちた表情で、奏良は頷いた。

 奏良は忘れていたのだ。自分が生きてきた世界の姿を。



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