おもいで④(葵衣)

『うちの新人、ほんと使えねーの。トロくて何度言ってもできなくってさぁ。本当、ハズレだわ』


 そう言われていることには気づいていた。

 自分は不器用で要領が悪くて、だから他の人に比べてきちんとやれない。

 だから頑張らなきゃ。迷惑かけないようにしなきゃ。人並みにできるようにならなきゃ。

 そうやって空回りしている内に、気が付いたらよく眠れなくなって、あまり食べれなくなって、就活で買ったスーツがぶかぶかになってきた。

 うまくやれないことが情けなくて、でも、落ち込んでる暇があったらがんばらなきゃって。

 必死にやってきて半年足らず。

 不摂生がたたったからか、ただの風邪なのに起き上がるのも危うくて。

 葵衣は就職して初めて仕事を休んだ。まるで逃げてしまったみたいで悔しかった。



 狭い2Kの部屋なのに玄関までたどりつかず、寝室から続きの一間で朝から力尽きて、なんとか欠勤の電話をかけた。暑くてしかたなくて脱いだスーツの上着をハンガーにかけなければならないし、このまま寝るのなら部屋着に着替えた方がいい。

 そう思っているのになかなか動けない。

 もうちょっと。もうちょっとだけ。少し楽になったら。

 そう思って何時間経過したのか。ズキズキ痛む頭では考えるのも億劫だった。

 吐く息が熱くて喉が渇いたけれど、同時に軽い吐き気も覚えていて、水を飲みに行く元気が出ない。


 ダメだなぁ。ほんとダメだ。

 何もできない自分に苛立ちと不甲斐なさを募らせながら、窓の外の太陽が赤く傾き、やがて静かな部屋が暗くなるまで葵衣は床に寝転んでいた。


「葵衣……何して…?!」


 ガチャリと鍵が開いた音で、ぼんやりとした意識が浮上した。

 もうそんな時間か、と思ったものの、起き上がろうとしてズキリとした頭痛に妨げられた。くらくらする。

 俯せのまま両手で額を押さえて耐える葵衣の異変を感じ取って、勝真は鞄を放り出して急いで側へと歩み寄った。


「あつ……」


 ゆっくりと葵衣が仰向けになるのを手伝って、勝真は呟いた。小さく舌打ちが聴こえて、葵衣はいっそう情けない気持ちになって眉を下げて笑った。


「ちょうし、わるくて。……やすんじゃった」


 カラカラの喉がら絞り出した声は小さく掠れていた。


「休んだんじゃなくて、倒れたっていう方が的確だな」


 また舌打ちが聴こえて、申し訳なさに葵衣は俯いた。


「……ごめん。ごめんね……っ?!!!」


 項垂れた葵衣をゆっくりと抱き起して、子供のように胸に抱え上げて、勝真は歩き出した。不機嫌で無遠慮な様子だが、ひとつひとついたわるように動く手つきは丁寧で優しい。


「何で連絡しないんだ」


 宝物のようにそっとベッドに降ろされて、葵衣は泣きたい気持ちになった。


 だって、迷惑をかけたくなかったから。


 なんとかそこそこの会社に就職したものの、使えない新人でしかない葵衣とは違って、大企業に就職した勝真は、入職して半年にもかかわらずずば抜けて仕事ができる期待の新人だと、勝真と同期になった友人に聞いていた。

 勝真は葵衣よりずっと朝早くに家を出て、夜が更けて帰ってくる。いくら仕事ができると言っても、まだ就職して半年。期待されているなら一層、やらなければならないことは多いだろう。

 疲れていないはずがない。


 なのに、結局こうやって迷惑をかけてしまった。


 情け無くて、不甲斐なくて、消えてしまいたくなった。

 何もできない自分が、こうやって勝真に大事にされていることを、申し訳なく感じていた。


「いいから寝てろ。無理しすぎだ」


「………ごめん」


 それでも自分のことすらままならずに、勝真に存分になされるがままに世話を焼かれて、気が付けば葵衣はすっかりと眠りに落ちていた。



「……すみません」


 ぼんやりと覚醒した耳に、勝真の声が遠くから聞こえる。


「家から可能な事は、そのまま処理させていただきます」


 灯りの消された寝室は静かで、隣の部屋で声をひそめて通話する内容をしっかりと拾ってしまった。


「他に居てやれる人もいませんから。……はい。ありがとうございます。ご迷惑おかけします」


 胸が詰まって、ぽろぽろととめどなく涙が溢れた。


 自分は無能なだけではなく、勝真の邪魔までしてしまう。仕事の妨げになって、頭すら下げさせて。

 ぼんやりと苦しさだけが胸の中で渦巻いて、言葉にもならない自責に唇を噛む。

 俺がもっとちゃんとできてたら。迷惑をかけたくなんてないのに。

 肩が震えて零れ出そうな嗚咽を、罰するように飲み込んだ。それでも震える呼吸が腹立たしかった。


「目が覚めたか」


 静かに扉が開いて、寝室よりほんのり明るい隣室の光が射し込んだ。そのほのかな明るさが、眠っていた葵衣を起こさないための配慮だと気づいて、何も言えずに布団の中で蹲る。


「気分は悪くないか?」


 勝真はそんな葵衣の様子を気に留めた様子もなく、ベッドまで歩み寄って端に腰かけ、葵衣の頭を撫でた。


「……だいじょうぶ、俺、大丈夫だよ。ごめんね、一人でも、大丈夫だから」


 ぎゅっと目を瞑って、平気を装って伝えたつもりなのに、隠し切れない涙声が嗚咽で掠れて震えた。何もかもが思い通りに行かずに、そんな自分が悔しくて、情けなくて、ただただ苦しい。目を開ける事すらできずに、葵衣はぎゅっと布団を握りしめた。


「そうか。でも俺はお前を一人にして大丈夫じゃない。調子が悪いことに気が付いていたのに、倒れるまで放って置いただけでも、全く大丈夫じゃない」


 勝真の静かな声のトーンはあまりにも優しくて、ただただ労わるように葵衣を撫でる手はあまりにも慈しみに溢れていて、葵衣は飲み込んでいた全ての苦しさを吐き出すかのように、声を立てて泣いた。


「ごめんっ……ごめんね、仕事、忙しいのに……」


「葵衣より大事なものなんてないだろう。大事なものを蔑ろにするような職場なら、身を置く価値なんてない」


「俺、俺なんて……何もできないのに、何の役にも立たないのに……」


「誰が俺の葵衣にそんなことを言った?葵衣は何もできなくないだろう」


「でも、ダメなんだ。当たり前の仕事、みんなできるようになっても、俺はダメなまんまで……、ちっともできるようにならないの、ずっと役立たずのままで」


「葵衣は要領よく覚えるのは苦手でも、覚えたことは着実にこなす。真面目で努力家で、慎重だから概ね身につけるまでは試行錯誤する。葵衣が混乱するような教え方をするやつに実力が足りないんじゃないか?」


「でも、みんなできるのに、できない俺が悪いんだ……」


 気が付くといつの間にか、葵衣は勝真に抱きしめられて、背をあやすように撫でられていた。当たり前のように淡々と返される言葉はどこまでも葵衣の味方で、その場限りの嘘や慰めでないような自信が漂っていた。


「葵衣を大事にしない場所には、お前はもったいない」


 大真面目に勝真が言うから、葵衣は思わず笑ってしまった。


「仕事辞めちゃったら、俺はかっちゃんのヒモになっちゃうよ」


「それはいいな。一生俺に養われたらいい。でも、葵衣はそれに耐えられないだろう?だから、せめて葵衣が働きたい場所を見つけるまでは、独り占めさせてくれ」


 葵衣は、もう自分たちはすっかり家族の形をしているのだと感じた。

 長年連れ添った恋人なのではなく、お互いの生き方に責任をもって、頼り合って、一緒に人生を過ごしていくパートナーなのだと。勝真はそう考えてくれているのだと。

 だから自分も、こんな風に燻ぶらずに勝真を支えることができるようになりたい。

 そのために、今は甘えて頼ってもいいのかもしれないと。

 心から、そう信じることができた。


「うん……奥さんがんばる」


 そう宣言して、自分で照れた。

 葵衣は決して性自認が女性な訳でも、女性になりたい訳でもないけれど。勝真と家族の形になるとしたならば、妻という立場へと淡く憧れていた。



 それからすぐに、葵衣は仕事を辞めた。

 何度か転職を繰り返して辿り着いた仕事は、ちっとも勝真と並び立てるような大きな会社でもなく、給料だって一人でやっていくならギリギリの、小さな商会の事務職だった。

 けれど仕事に通うのが苦ではないくらい人間関係も良く、個人的な都合も融通し合える。忙しい勝真の奥さんでいるためには、葵衣にはちょうどいい環境だった。


 指輪を貰ったのは、一度目の再就職の際。

 結局その仕事はすぐにやめてしまったのだけれど、タイミングを見計らってくれた勝真の思いやりは、ずっと嬉しく思っている。

 毎日しばらく指輪を眺めては幸せな想いに浸っていた。浮かれてこっそりと『桐ケ谷葵衣』なんてメモ帳に書いてにやけていたら、勝真にみつかって恥ずかしさで悶えた。


 一緒に過ごしている内に、葵衣はふっと思い浮かべることがあった。

 勝真が、もしも自分を選んでいなかったら。


 きっと、実家とは今みたいに拗れずに上手くやれていたのかもしれない。

 もともとの実家の繋がりがあったならば、もっとすごい場所で、もっと手の届かない偉い人になっていたのかもしれない。

 誰もが憧れるような、綺麗で地位の有る女性と結婚して、子どもだっていたのかもしれない。

 夢にみるような幸せな人生を歩んでいたのかもしれない。


 葵衣は幸せだった。

 けれど、その分、自分が勝真の可能性を奪ったのではないかとどこかで思うことを繰り返していた。


「俺はかっちゃんのお嫁さんとして合格してる?」


 解けてはまた集う不安に、葵衣は時々勝真に尋ねた。


「葵衣以外には意味はないだろう」


 その度に、必ず不安を打ち砕く言葉が返ってきた。

 葵衣は幸せだった。

 ずっと、ずっと、幸せの中にいた。



 幸せな記憶に溢れたまどろみの中で、ぼんやりと勝真と奏良の声が聴こえている。


「ねえ、これってどういう意味?なんて読むの?」


 葵衣が棚に詰め込んでいたレシピ本を手に取って、奏良が真剣な顔で勝真の顔を仰いでいる。


「それは、”げる”だな」


「そっかぁ、こんな字を書くんだ。俺、あんまり漢字読めなくてさ」


「今から覚えればいい」


 心の中は、満ち足りている。

 それは、自分の心でもあり、奏良の心でもある。ふわふわとした幸せな気持ちの中で、その区別は今はつかなかった。


 ただ、大好きな人の声を聞いている。大切な子に、いつものように優しく、温かく、堂々と、揺るぎなく、言葉を紡いでいる。

 涙が零れそうなほどに、愛おしくて幸せな光景。



 自分が薄れていっていることに、葵衣は気が付いていた。

 悔いはなかった。十分すぎるほどに幸せだった。

 だから大切な人たちに、ただただ幸せでいて欲しかった。

 葵衣が願うのは、もうそれだけだった。

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