君は。君だけは。/4.所有
「ねえ、ファス。私は間違ってはいないだろうか。正しく在れているだろうか」
大勢の家臣の前で微笑み、堂々と施政の説明を口にしていた主は、自室に戻るなり不安そうに呟いた。
「殿下はいつも正しく誠実であられます。もし貴方様が行うことに非があるとすれば、それは私の非であるでしょう。私の全てにかけて、そうしてみせます」
「そうだね。君はきっと難なくそうするだろう」
泰然とした微笑みの形で固定されていた殿下の頬から、ふっと力が抜ける。
そうして子どもが甘えるように、そっと侍従の胸に顔を埋めた。
「ああ、だから私は間違ってはいけない。この先の道を一人で生きていくなんて、そんな自信はないよ」
「私などおらずとも、貴方様は常に貴方様のお考えで尊くていらっしゃいます」
主様の不安はわからなくはない。
どこに足を引っ張ろうとしている人間がいるかもわからない不穏な場所で寝起きして、疑心暗鬼にならないはずがないだろう。
それでも常に正しく清廉潔白であろうとするこのお方は、どこまでも尊い国の宝であられる。
私がいなくても、他の同志がいる。この尊きお方に全てを捧げているのは私だけではない。私亡き後も任せられる人物は多数存在している。育成もしてきた。
「そうだね。それでも、不安になることを許してくれるかい?君は……君だけは、私のものだから。他人に見せることができなくても、君は私のものだから構わないだろう」
「御意にございます。私ごときが主様のお役に立てるならば、望外の喜びでございます」
かのお方は、私の言葉を信じてくださっている。
最初は年の近い侍従として。気安く優秀な臣下として。徐々に気の知れた相手としてお心を緩ませて、年月を経るたびに信頼を寄せてくださっていった。
お側に侍る間に数度身を挺してお守りしたこともあるし、爵位をいただいた時には皇后様に呼び出されて、瀕死になるまで拷問に耐えたこともあった。
それでも主様への態度を一切変えることなく、最初にお誓いした通りに、身も心も魂さえもこのお方のお役に立つためだけに存在している私を、今ではもう十分理解して、裏切ることはない自分の所有物であるとお認めになっている。
このように、弱音を口にされることも、主様にとっては壁や人形に向かって語りかけることと大差ない。
私は主様の不利になる事は、決して口外しないのだから。
「ねえ、ファス。君も抱きしめてくれるかい。ファシー、ねえ、私の名を呼んで」
「下賤の身で尊きお方に触れることなどあってはなりません。尊きお方の名前を呼ぶことなども」
「お願い、ファシー。どうか命令させないで。私は君に叶えて欲しいんだ」
「………ルベル様。尊き御身に触れるご無礼をお許しください」
そっと主様の背に手を回す。それだけでかのお方は、幼さすら感じさせるほどの緩んだ笑みで、更に私をぎゅっと抱きしめた。
かのお方は物心ついた頃から、善良な為政者となることだけを強要され、評価され、陰で蹴落とし合いに巻き込まれながらも、誰もに正しい姿だけを見せなければならなかったのだ。
そうでなければ、闇に葬られてしまう可能性すらあった。
その果てしない不安や恐怖や孤独は、徐々に主様の所有物である私へと向いていった。
私は主様のお役に立つことができるのならば、そのような些細事は厭わないし、誰にも口外することはない。むしろ覗き見る目を全てくり抜いて、向けられた聞き耳を漏れなく引きちぎるだろう。
「ねえ、ファシー。もしも私に誰かを愛する自由があったならば、私は君を愛していたと思うんだ」
幼子のように甘えていた麗しい顔が上を向いて、そっと唇を重ねられる。
「なりません、ルベル様。どうぞお許しくださいませ」
抗ってみたところで、この方の行き場のない欲望が止められないことを知っている。
間違ってはならないから、正しくなくてはならないから。
このお方は今まで人として持っていた全ての欲を諦めてきたのだ。生き抜くために。
その歪んだ欲望の全てが今、自分のために命を捨てられる、決して裏切らない相手へと向いている。
それはこのお方にとって、きっと救いに思えることなのだろう。
「君は、私のものだろう。他の誰にもこんな姿を見せることはできなくても、君だけには許されるんだ。そうだろう?ファシー」
触れることすら憚られる尊い主様に触れられるなどという事態に、ついぞこの尊きお方を求めてしまいそうな不埒な想いが湧き上がりそうになって、蓋をする。
このお方のお役に立てることの全てが私の望みであり幸福である。
それは、生涯違わないのだから。
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