君は。君だけは。/2主君

 幌付きの荷馬車に揺られて、どれくらいの時間が経っただろうか。

 俺達を買い上げてくだすった旦那様の元に行くんだよ、とチビ達に言い聞かせながらも、世話を焼く年長の子どもたちの顔は晴れない。

 当たり前だ。自分たちが買われたという事実以外何もわからないのだから。

 ただ不安を隠しながら、所々で挟む休憩の間にまだものの道理がわからない幼い子らが初めての外の世界にはしゃぐ様子を見て、束の間の自由に心を慰めていた。


 そもそもが、誰も商会の外の世界のことなどほとんど知らない。ただ、商会で知恵をつけてきただけの俺たちでも、何度も馬車を乗り換えて進むこの道程が普通ではないことくらいはわかった。


 朝晩食事が配られて、夜には行儀よく固まって皆で毛布にくるまって眠る。薄汚れた子どもたちのボロボロの服よりも、踏みつけられているはずの荷台の床の方が綺麗だった。

 労働を強いられる訳でもない。子どもらの世話を自分たちで賄う程度で、俺達はただ詰め込まれた荷物と変わらなかった。


 かの高貴なお方の姿は、道中何度かだけ目にすることができた。直接お声がけがある訳ではなかったが、俺達が一生働いてもシャツ一枚買うことができないような一等品の衣類に身を包んで、外套のフードの下に陽の色の髪を輝かせた美しいお姿を遠目に盗み見た。

 かの方の年の頃は、俺よりも幾つか年上くらいのようだった。

 それなのに、たくさんの護衛を引き連れた彼の姿は、今まで高級奴隷の元に通ってきたケチなお貴族様とは比べ物にならないほど凛として威厳が漂っていた。


 数日そんな旅路を続けたが、大通りから荒れた道に入って少し進んだ後に馬車が止まった。

 そこにあったのは、お城のような大きな建物だった。

 震える脚を叱咤しながら、促されるままに子どもたちを先導した。先にたどり着いた高貴なお方へ、美しい姿勢で頭を垂れる使用人たちの姿が、彼の後ろに控えた護衛の向こうがわに見えた。


「急なお願いにも関わらず、ご苦労だったね。ありがとう」


 涼やかな彼の声が、静寂の中に響く。


「もったいないお言葉、痛み入ります。急ごしらえではございますが、我らが尊きお方の滅多にないお願いに携われたことが光栄でございます」


 年かさの女性が恭しくも親し気に返礼した。

 彼女はかのお方を『尊きお方』と呼んだ。名前でも地位でもなく。彼と言葉を交わす他の使用人たちや護衛にも、彼の身分を明かすような言葉を発する者はいない。

 つまり、これはこの尊きお方にとって、公にできない秘密だということだ。


「さて、それでは子どもたちを頼むよ」


「お任せください」


 話を終えたのだろう。身を翻した高貴なお方に、慌てて子どもたちを建物の隅に並べさせて頭を下げさせた。

 目の前を優雅な足取りで歩んでいた彼は、俺達の前で一度足を止めると、小さく笑みを零して声をかけた。


「詳しくは彼女たちに聞くように。君たちの健やかな成長を祈るよ」


 言葉を発することができずに頭を下げ続ける俺達へと視線を投げかけて、足音は遠ざかっていた。

 彼の後を連なって出ていく護衛たちの足音も遠ざかり、ようやく頭を上げた子どもたちは不安げに顔を見合わせ、ざわりと空気が揺れた。


 カツカツと美しい靴音を鳴らして、使用人の先頭にいた上品な女性が俺達の前へと歩み出た。声や表情だけでなく、呼吸や指先の動きの一つまでもが計算されたかのように優雅な彼女は、皺の浮かんだ目じりを和らげてにこやかに笑顔を浮かべた。


「よく躾けのとどいた子どもたちですこと。良くお聞きなさいね。ここは、かの尊きお方があなた達のために施した孤児院です。とはいえど、まだ建物と使用人しか用意はできていないのですけれど。

 あなた方にはこれから、ここで学び、実を備え、いずれかあのお方に恩義を返せるように努めて貰います。その方法については、共に考えてゆきましょうか。

 取り敢えず、わたくしのことは院長とお呼びなさい。他の者たちの紹介は追々。まずは生活に慣れるところからですからね」


 それから、俺達が考えたこともなかった生活が始まった。



 通常の孤児院がどんなものなのかは知らない。

 ただこの場所は、異質なほどに保護されていることに気が付いていた。

 古い洋館は商家の金持ちが住まっているものよりも立派で、数の多い部屋のいずれもが、子どもらが自分の汚れた足で歩くのを憚れるくらいに綺麗に磨き上げられていた。

 施設長と副施設長。それから職員が三人ほど。どの大人も奴隷商を訪れていた下っ端のお貴族様よりもずっと優雅で、物腰も言動も全てが洗練されていた。


 三十余りの子どもの数に比べて、大人の数は少ない。施設の清掃や洗濯、食事の準備など、この大人たちの基準で保持するのもやっとな人数だろう。

 職員の数を増やす計画があると言っていたけれど、俺達は基本的に自分らの集団で世話をしあって生きてきていた。だから、問題はなかった。

 どちらかと言えば、急に与えられた立派な部屋や、清潔な洋服やリネンに恐縮し、腹を満たせる食事が何もせずに与えられる事に困惑していた。

 上客の前に出る時と、上級奴隷の入浴の世話をした後にしか使うことができなかったお湯でさえ、毎日のように使うことができた。


 朝起きれば清掃に洗濯、庭の手入れに食事の準備の手伝い。小さな子たちの世話もいる。自分たちにできる仕事を割り振って過ごすうちに、子どもらは皆、ここでの生活に慣れてきた。

 人手が足りずに俺達のするに任せていた大人たちは、追加の職員を調達し、俺達に仕事の代わりに学を授けた。

 裕福な商家の息子ですら関わることができないような立派な教師を招き、毎日のように授業を受けた。


 街の子らより立派な教育を受けた上で、俺達にはたくさんの選択肢を授けられた。

 学びたいと思うことややってみたいことがあれば、教師や教本を与えてくれる。

 家政を習得し、施設の職員の見習いになる者もいた。職人を目指して弟子入りの斡旋をしてもらい、施設を出て行った者もいた。

 幼い子らはシッターに守られ、のびのびと遊ぶことを覚えた。

 俺達は、とびきりの自由を手に入れていた。


 だが、俺達の中で年長だった者たちは理解していた。

 ここは、普通ではないのだと。

 この破格の待遇を与えてくださった尊いお方のために、恩義に報いたい。それだけを胸に学び続けた。そんな同志の数は、十余人ばかりいた。


 あのお方のために何かすることができるのならば。お役に立つことができるのならば、この身も魂も、幾らでも投げ出せる。惜しむことはない。あのお方に命を捧げられたならば、幸福だろう。

 俺は、できる限りのことを学んだ。できる限りの技術を身につけた。朝も昼も夜もない。ここに来て一年と少し。学びながら、同志を統べていった。

 俺達は、この隔絶された楽園の外の情報すら手に入れた。

 外の世界に出ていった子らも、わきまえを知っていた。時には情報を得るために協力だってしてくれる。

 そうして、いつかあのお方のお役に立てることだけを願っていた。


 かのお方は、数か月に一度ほどこの施設を訪れる。

 子どもらと接する訳ではない。訪問すら秘匿されている。

 けれども、俺はかのお方がいつここに訪れるのかを知っていた。


「やあ。とても優秀だと聞いているよ」


 玄関ホールで足を止めた尊きお方の前で、膝をついて頭を垂れる。

 終わりを迎える覚悟ならば、薄暗い地下室で必死に生きていた頃から既にできていた。


「貴方のお役に立てるよう、不肖の身ながら励んでまいりました。この身も心も魂すらも、貴方に捧げたいと願ってやみません。愚かな奴隷の夢見事と理解しております。ですが、どうかご慈悲をいただけないでしょうか、殿

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