おもいで③(葵衣)
先が見えないほど長いと思っていた大学生活は、あっという間に過ぎ去った。
最初は不確定に思えてならなかった葵衣と勝真の関係も、それだけの共に過ごして、自然に当たり前のように思えるようになっていた。
就職を意識した頃から、葵衣は少し迷っていた。
一人っ子の自分がこのまま自分のことだけを考えて生きていいのだろうか。
地元に帰らずにこのまま勝真との生活を続けたいという意思はあった。両親からも戻ってきて欲しいと言われている訳ではない。
親元に帰らずに自立した生活をすること自体は、珍しいことではないかもしれない。
だけど別々の場所に就職してまで、勝真と一緒に住んでいることについては?
この先ずっと黙ってはぐらかして生きていくのだろうか?
そう思うと、心苦しい思いがあった。
葵衣は、勝真に選ばれたことを嬉しいと思っていたし、そんな自分でよかったと思うようになっていた。
だから、悪いことをしているかのように後ろめたくはなかった。そう思いたくもなかった。
もちろん誰もに受け入れられるとは思っていない。異質だと思うのも、気持ち悪いと思うのも個人の感性なのだから、それをどうこう言える訳はない。
だけどやっぱり隠しておきたくはなくて、自分の大切なものを認めて欲しいような想いもあった。
だから、親しい友人の一部には全てありのままに伝えていた。慎重な葵衣が深く付き合うような友人は、何も変わらずありのままの葵衣を受け入れてくれた。
しかし、友人は葵衣だけの問題で、もし受け入れられなければ縁がなかったと思うだけのことだが、相手が親となれば同じようにはいかない。
葵衣は何となく、自分の両親は受け入れてくれるのではないかと思っていた。争い事を嫌う温和な両親が、勝真のことを反対するようには思えなかった。
でも勝真はそれを望むだろうか。
そもそも勝真は他人が何を言おうと気にもしない、確固たる自己を持っている。他人に認められることにも興味はない。むしろ面倒ごとを器用に避けて通るタイプなのだ。
葛藤は緩やかに葵衣の胸に住み着いた。
これから先、将来に向けて。二人で過ごす未来を信じているからこそ、答えが出ない問いを繰り返した。
迷い続けた葵衣は、お互いに就職先が決まった後で思い切って勝真に告げた。
「ちゃんと両親に言っときたいんだ。俺が大切な人と一緒に幸せに生活してるんだってこと」
ちょっとばかり不安を抱いたまま切実に訴えた言葉は、まさしく音になると告白のようだった。
勝真はほんの少し驚いて、柔らかく笑って快く頷いた。
「そうだな。うちの親は葵衣に不快な思いをさせるかもしれないが。二人で生きて行く意思表示はしておこう」
それは実質、二人の中では形のない結婚だった。
久しぶりの帰省だったかもしれない。
毎日のように見ていた景色に、見慣れない建物が所々混じっている。けれど記憶と一致する場所の隅々に、初々しくお互いに戸惑ってばかりだった頃の面影が残っていた。たくさんの思い出に懐かしさを感じるとともに、変わってしまった景色には地元を離れて二人過ごした時間の長さを実感した。
他人事のように見えた自宅の玄関をくぐると、何一つ変わらないのんびりとした空気に安堵の吐息が零れた。
記憶の中とさほど変わらない母がいそいそと玄関先まで出迎えに来て、部屋の奥からおめかしした父がそっと顔を覗かせていた。
葵衣が大まかなことを連絡した時に、母はよかったわねぇと穏やかな様子で祝福してくれていた。
「息子が増えてくれるなんて嬉しいわ」
にこにこと笑みを浮かべて、母は惑いなくそう言った。
「葵衣ちゃんが生まれた後に、私の体はうまく回復することができなくて。弟か妹になるはずだった子を育てることができなかったの。私もこの人も子どもが好きでね。だから、娘だろうと息子だろうと、増えてくれて嬉しいの」
ねえ、と母が父に向って問いかけると、緊張で硬くなったまま父は不器用に頷いた。
葵衣はその話を初めて聞いて驚いていた。
けれど同時に、葵衣の記憶の中の心配性で不安にうろたえる母の態度に納得がいくことだった。
「葵衣ちゃんが一緒にいたいと思う相手と過ごせるのだから、それは私には喜ばしいことよ。それが新しく家族になるのに一番大事なことだから。もし子どもができなければ夫婦じゃないというのなら、私だって同じでしょう?そんなことよりも、お互い思い合えることの方がずっと大切だと思うわ」
父が気遣うように、そっと母の背に手を添えた。
この二人はそうやってお互いに寄り添って生きてきたのだと、葵衣は初めて気が付いた。
「……私はあまり会話がうまくなくてね。どういう事を話せばいいものか、うまく思いつきもしないのだけど。歓迎するよ」
父はそわそわと視線を揺らしながらもそう言って不器用な笑みを浮かべて、勝真へと手を差し出した。
あまりにも喜んで受け入れられて、少し気恥ずかしそうに勝真が父と握手を交わすのを見て、葵衣は自分がどれだけ恵まれているのかを思い知った。
母は本当に弱く頼りなかっただろうか。
不安に泣きながらも必死にすべきことをやり遂げ、責任を放棄したことは一度もなかった。
父は本当に不器用で頼りなかっただろうか。
うまくやれなかったとしても努力して、今まで何の問題もなく家族を支えてきた。
葵衣のことを一番に考えて、勝真と一緒に生きたいという、おおむね世間では受け入れがたいだろう想いを喜んで受け入れてくれた。
認めるだとか許可するだとか、そんな他人事ではなくて、当たり前のように家族の一員と考えてくれている。
こんなにも強くて頼りがいがある両親に恵まれていたのだ。葵衣の視野が狭くて、今まで気づけなかっただけだったのだ。
思わず涙が零れてしまったところは母譲り。うまくいい訳すらできないところは父譲りなのかもしれない。
葵衣はそれが誇らしかった。
そんな幸福の一方で、勝真の両親への報告は苦い思い出としていつまでも住み着くものとなった。
高級な料亭の個室。あらかじめ予測していたのだろう勝真は店側に中座の可能性が高いことまで伝えて段取りをしていた。
約束の時間に現れたのは、同居する際に一度だけ挨拶をした勝真の母親だけだった。
「あの人は忙しくてこないらしいわ」
彼女は何でもなさそうにそう言った。
品の良い調度で整えられた座敷は、冷たい緊張が張り詰めていた。
勝真の母は真っすぐに勝真だけを見ていて、ほとんど葵衣を視界に入れることすらない。けれど存在そのものが醸し出す威圧感に、葵衣のみぞおちは緊張で震えた。
「人生を共に過ごしたいと思える相手を見つけたので一度ご報告に。これはお伺いでも相談でもありません。単なる報告です。いかなる意見も不要です」
勝真は葵衣が聞いたこともないほど冷淡な声で母親へ告げた。
「はあ?」
勝真の母は不快そうな様子で葵衣と勝真を一瞥し、それから見下すように嘲りの笑いを零した。
「何を馬鹿なことを。そんなののために貴方の人生を投げ捨てるのかしらね。私情に振り回されてまともな判断もつかないなんて愚かしい。少し考えればどれだけ恥ずかしく愚鈍なことを言っているのか解るはずじゃない?それともそれくらいのこともわからないほど救えない馬鹿だったのかしらね」
美しく弧を描いた唇が罵るのを、恐れや悲しみよりも辛い思いで聞いていた。
こうやって傷つけられて生きてきたのだろう勝真に、胸が苦しかった。
「自由に判断してかまわない。これは報告に過ぎませんから」
何の感情も持たないかのように勝真が淡々と答える。それに汚物でも見るような視線を向けたまま、鼻を鳴らして彼女は立ち上がった。
「わかったわ。せいぜい後悔なさい」
そう言い残し、ここに他の人間なんていないかのように一切の名残なく部屋を出て行った勝真の母の後ろ姿を眺めて、葵衣は眉尻を下げた。
「不愉快な思いをさせてすまなかった。あの人は自分の思った相手でなければ、誰が相手だとしても同じように言っただろう。そういう人だ。だから、葵衣が気にすることはない」
葵衣の心はこんなにも苦しいのに、それを平然と受け入れている勝真に悲しさが募った。
「………悲しいね」
胸の内をうまく言葉にできずにそう呟くと、勝真は穏やかに笑みを浮かべた。
「葵衣がそう言ってくれるから、悲しいことなんて何もない」
守りたいと思った。
葵衣は、強くなくても、不器用でも、自分の形で勝真を支えて幸せにしたいと思った。
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