おもいで②(葵衣)

 高校を卒業し初めて自分の生まれ育った場所を離れて、葵衣は勝真と二人暮らしを始めた。


 同居の話をした際に、お互いの母親と顔合わせをした。既に何度も勝真と会っていた葵衣の母は「一人より心強いわね」と言って快く了承してくれた。

 その時には思い至らなかったが、後になって思い起こすとわかりやすい葵衣の想いはすでに母には筒抜けだった。


 勝真の母に挨拶をしたのは、何度も訪れていたものの一度も他の家族と顔を合わせたことはなかった勝真の自宅だった。彼女は見るものを圧倒させるような威厳に満ちた立ち姿に全身高級そうなスーツを纏っていて、まるで葵衣とは全く違う世界に住んでいるように見えた。

 葵衣はいたく緊張したが、彼女は葵衣を値踏みするように見た後に「好きなようになさい」と勝真へ一言残してついたばかりの席を立った。

 あまりにも短いやりとりに、葵衣は自分が何か粗相をしたのではないかと不安になったが、勝真はあれが母親の通常だから気にしなくていいと溜息をついていた。



 慌ただしい春休みは毎日が新鮮で、二人で過ごす家を整えるのは夢のような時間だった。

 最低限の家具だけ運び入れて泊まり込んだがらんどうの部屋には、たくさんの未来が詰まっているように感じた。一つ一つ家具や装飾品がそろって二人だけの家が出来上がってくると、ただそこにいるだけで嬉しかった。

 幸福に満ちた『永遠』を手に入れたかのような心持ちだった。


 だから、反動的に。

 入学式が終わってすぐ。葵衣は急に不安になった。

 同じ家に住んでいても、勝真は葵衣より早くに家を出て帰ってくるのが遅い。

 ソファーに寝転がって玄関を見つめていると、もしかしたら自分は一人で置いて行かれたのではないか、勝真はもう帰ってこないのではないかと悲観的な想いに駆られた。頭で理解していることに、心はちっとも納得してくれなかった。


 入学してわずか一週間ほど。葵衣は日付の変わる頃に返ってきた勝真にすがりついて号泣した。

 そしてそれを深く深く反省した。



 将来、なんてものを具体的に考えられるわけではなかった。こうなりたい、なんていう高尚な目標もなかった。

 ただ願うならば、こんな、自分でも愛想が尽きるような葵衣のことを大切にしてくれる勝真に、少しでも何かを返せるようになりたいと思った。


 家事や料理を積極的にするようになったのは、勝真の役に立てて嬉しかったからだ。得意な料理が増えるたびに、勝真に感謝されるたびに、葵衣の中には小さな自信が積もっていった。

 葵衣は自分が不器用なことを思い知っていた。しかし実際にやってみれば、思っていたよりも頑張ればうまくいくことは多かった。

 ダメかもしれない。そう見切りをつけなくなった分、何かに挑戦することは苦ではなくなり、時には楽しいと思えるようになった。


「どうせ俺なんて」と不貞腐れて泣いていた自分は、ただ言い訳して逃げていた。できないと惨めだから。できないと情けなくなるから。自分がダメなやつだと思い知りたくないから。

 そう気が付くと、周囲へも目が向くようになっていった。



 一緒に過ごすようになってしばらくして、葵衣は勝真が休むことが苦手だということに気がついた。

 幼い頃から細かくスケジューリングされた日常を過ごし、学習は家庭教師、運動はパーソナルトレーナー、一般教養として音楽や絵画、書道にダンス、その他にも細々と多数の習い事をしていたらしい。普通の子どもが日がな遊ぶことしか知らないような頃から、自由からほど遠い管理された日常を過ごしてきたのだ。

 熱があっても徹夜を続けても、いつも大丈夫だという。疲れたとも調子が悪いとも言う事がなく、それすらコントロールすべきことの一つだと自分を律している。

 勝真のそんな姿は、熱があれば泣きながらオロオロと母に心配され、疲れた時には葵衣が休めるようにとそっと自室に籠る父の配慮を受けてきた葵衣には、考えたこともないことだった。


 葵衣が心配すると、意外にも勝真は素直に従った。遥か高くにあると思っていた頭を撫でると、子どものように葵衣の手にゆだねてきた。それから、あたふたと不器用に世話をする葵衣を静かに幸せそうに見つめ、どこか楽しそうにされるがままになっていた。

 葵衣はそれがたまらなく嬉しかった。

 勝真に頼られて、自分なりに何かを返すことができたから。貰うだけではなく返すことができた。してあげられることができた。

 しかもそれは、勝真が生まれて初めて受け取るもので、葵衣を信頼しているから受け取るものだったから。

 不器用な手つきがスムーズになるように。少しでも安寧をもたらすことができるように。そうできるようになりたくて努力した。


 誰もが完璧ではなくて、完璧に見える勝真にすら葵衣がしてあげられることがある。

 誰にだって『できること』の裏側にはできるための努力があって、必要な努力の程度に個人差はあるかもしれないけれど、挑まなくてできる訳がないのだ。

 だから、できることは誇っていい。自分も、他の誰かも。

 その逆もあって、『できないこと』を怯える必要もないのだ。自分も、他の誰かも。


 そんな風に思いながらも、焦げたフライパンを前にぐずる葵衣の背を撫でて勝真は当然のように慰めを口にした。


「今回は上手くいかなかっただけで、葵衣はいつも真っすぐに頑張ってくれているだろう」


 葵衣は嬉しくて号泣した。

 不器用だから頑張ってもダメな時もある。でも、うまくいく時だってある。だから不器用なりにたくさん頑張るしかなのだ。

 それは葵衣がようやく辿り着いたばかりの、ようやく目が向くようになった、ようやく自分で認められるようになった事実だった。

 だけど勝真は、最初から葵衣のそんな所を評価してくれていた。

 真面目で不器用で、頑張るしかない。情けないと思ってばかりだった葵衣の姿を、最初から認めて、長所だと思ってくれていた。

 それは誇らしく、確信として葵衣の心に染みた。


 釣り合わない。

 ただそう思っていたし、だからこそ不安だった。

 客観的には決して間違いではない。釣り合わないと考える人は多いかもしれない。

 だけど、勝真の中で価値があるものを、葵衣は持っている。

 夢でも降って沸いた幸運でもなくて、こんな葵衣のことを理解して愛してくれているのだ。

 恵まれている。この世界の誰よりも幸せなことだろう。


 葵衣は自分自身の不器用さを、弱さを、ダメだと思っていた全てを、許して受け入れることができた。

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