おもいで①(葵衣)

「危ないの、葵衣ちゃん……ああ、無事でよかった」


 母は幼い葵衣が年齢なりの無茶をする度に、叱るのではなく心配して泣いた。

 幼稚園で活発な子に突っかかられ、押し合いになって相手が転んだ時なんかは、母はただ泣くばかりで、生真面目な父が相手の母親が気まずそうにするほどに頭を下げた。


 優しくて気が弱くてすぐに泣いてしまう母親は、葵衣にとって幼い頃から守るべき存在であったし、不器用で言葉が少ない父親はあまり頼もしくはなかった。

 だけども、とても両親に愛されていることを葵衣は知っていた。

 心配をかけてはいけない。迷惑をかけることをしてはいけない。

 気付いた時にはそう思うようになっていて、ただはしゃぐだけの幼子を卒業していた。


 葵衣はいつの間にか当たり前のように相手の顔色をうかがい、空気を読んで相手に合わせるようになっていた。

 元より内気で、外を駆け回るよりも室内で大人しく本を読んだり工作したりする方が好きだったけれど。問題を起こすようなはしゃぎ方をしなくなった結果、無鉄砲に知らない子たちの遊びに交じったり、適当な言動で盛り上がったり、ノリや衝動で考えなしに何かをするような子どもらしさからは遠ざかった。


 何かに挑戦することもなく、活発な人間よりも色々と経験は少なかっただろう。勉強や運動が上手くできなくて、人並みより不器用な自分にひどく焦りを覚えるようになった。

 自分は不器用でダメな人間だ。

 それが恥ずかしくて、できないことで誰かに迷惑をかけるのも悲しかった。


 葵衣は知らない人や、突発的に自分に絡んでくる人がどんどん苦手になっていった。

 苦手なことを表に出してはならないと頑張って相手に合わせ、うまく調子を合わせることは上手になったが、いつだってうまくやれるか自信がなくて緊張した。

 緊張してもうまく取り繕ってしまうから、嫌だとか苦手だとかは相手へと伝わらなくなった。


 そういう大人しく協調的で扱いやすい人間は、逆に快活で勢いのある人間に気に入られるものだった。

 悪循環から抜け出す手立てもなく、葵衣は人見知りを隠しながら、人当たりが良いいじられ役のポジションを確立していった。


 葵衣は、そんな自分がいつだって情けなくて嫌いだった。



 葵衣が勝真に出会ったのは、高校に入ってすぐだった。

 地元の高校の中では進学校で、同じ中学出身の人もそこそこいた。けれど、県内屈指の高レベルである特進コースを持つ高校には、葵衣たちとはかけ離れて学力が高い人も多くいた。

 勝真はその中でもトップクラスの実力の持ち主だった。

 地元どころか国内で有名な企業の重役の子だとか、入試以来成績は常にほぼ独走状態だとか、身体能力も高くて体力テストでも有り得ない記録をだしただとか。

 入学以降色々なことが人々の噂に登るほど、なにもかもできる人。

 表情が薄く、愛想笑いもしない。無駄口をたたかず、他の人と仲良くしようともしない。

 何となく恐れ多いような近づきにくい人だと思い、同じクラスだが接点なく過ごしていた。


 偶然近くの席順に並んで、一緒にグループワークすることになったのは、夏過ぎだっただろうか。

 あまり積極的に場を仕切るような人物がいないグループで、他のメンバーはできることなら手を抜きたいと考えているようだった。次の週で中間発表するというスケジュールなのに大して話がまとまらず、生真面目な葵衣が話を詰めようとしても適当に流された。

 葵衣は諦めた。このまま話がまとまらないのなら、自分が全てするしかないのだろう。そういう経験は今まで何度もあった。


 その時、勝真が静かに口を開いた。決して高圧的な訳ではなく、ごく自然に淡々と、事務的な口調で。課題を解決するための役割分担とスケジューリング。ひとりひとり得手不得手などの意見も聞き入れながら、誰もが反論できない形で作業の分配を取り仕切った。

 時間終了後に勝真へお礼を言うと、当たり前のことだろうと、本当にそう思っているような態度で返ってきた。

 この人は怖い人ではないんだな、と葵衣はその時気が付いた。

 誰とも同じだけの距離感を保っているだけで、誰のことも平等に見て、自分の頭で判断している。その意見を毅然として口に出せるところは、頼もしくて格好よく思えた。


 徐々に勝真と仲良くなって一緒に過ごすことが増えてからも、葵衣にとって勝真は自分とは格が違う人間だった。

 何でもできるのに周囲をばかにすることがない。自分が知らないことがあれば素直に認めて受け止める。落ち着いていて頼りになって、ちょっとした手助けを惜しまない。

 そんな相手が当たり前のように自分と人並み以上に仲良く過ごしてくれることが、嬉しくてちょっぴり誇らしかった。



 高校二年生になって、勝真に告白された。

 今まで考えたこともなかった恋愛に足を踏み入れた葵衣は、最初は混乱ばかりしていた。

 まるで夢のようだった。こんなにすごいと思える人間に選ばれるなんてと喜びに浸っていた。

 だけれどだんだんと上手くやれない自分へと情けなさが募っていった。

 すぐに許容オーバーになって、拒否ばかりしてしまうことも。感情が高ぶって子供のように泣きぐすってしまうところも。

 勝真に大切にされていることがわかっていながら、嫌なことばかりしてしまう自分に落ち込んで。

 そのうちに、葵衣は勝真と自分は釣り合わないと思って落ち込み、不安に駆られ、何でもない相手にすら見当違いな嫉妬心を抱くようになった。


 失いたくない。

 けれど、自分に繋ぎ止められる何があるというのか。

 最初から釣り合ってもいないのだから、そんな資格なんてないのに。

 それでも不安になることを止められない。

 父のように不器用で頼りなく、母のように泣く事しかできない。

 葵衣はそんな自分に気づいて更に焦りを深めた。

 両親のことが好きな自分ですら、時折両親のそんな部分を厄介だと思ってしまうのに。勝真にそれ以上に厄介な自分の相手をさせているのだから。


 嫌われたくない。奪われたくない。

 なのに、うまくやれない。嫌われるようなことばかりしてしまう。

 不安になればなるほど、結局は甘えついて泣いてしまう。

 少しでもふさわしくなりたいと、色々と頑張ってみたけれど追いつくべくもない。

 勝真は最初から葵衣どころか、学校中で抜きんでて何でもできる人間で。最初から葵衣とは格が違う人間なのだ。


 葵衣はどんどん厄介にこじれて、卑屈になっていく自分の不甲斐なさが嫌で仕方なかった。

 勝真はそんな葵衣を、一度も厄介そうにすることがなかった。

 卑屈なことを言っても、泣いて不安をこぼしても、だいたいは可愛いで済まされてしまう。葵衣が不甲斐なさを悔やめばいいところをずっと言い聞かせてくれるし、泣けば気が済むまで抱きしめて背をあやしてくれた。

 疑う隙もなく大事に大事にされていた。

 だから、葵衣はいつかそれを無くしてしまうのが怖かった。



「離れたくないなら、一緒に住めばいい」


 何の戸惑いもなく勝真がそう言った時、葵衣の中で確実に何かが変わった。

 この先も一緒にいたいと思ってくれている。いつの間にかなかったことにはならない。

 夢から醒めるように、儚く無くしてしまうことはない。

 この先に一緒に過ごしてゆく未来があるということを、初めて現実のものとして思い浮かべた。

 不安も不甲斐なさもある。だけど、失わなくていい。

 勝真は何があっても一緒に乗り越えようとしてくれるし、一方的に切り捨てるようなことはしない。

 その信頼が、葵衣に小さな自信をくれた。


 自分自身が嫌で仕方がない葵衣のことを、勝真は好きでいてくれる。

 失望なんてしない。見捨てられたり呆れられたりもしない。

 それは本当に、本当に奇跡のような幸福に思えた。

 ならば、ほんの少しだけ。不器用なりに少しずつでも。自分の嫌なところを変えていきたい。変える努力をしていきたい。


 葵衣は初めて嫌でしかたなかった自分自身を、ありのまま認めることができた。

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