にちじょう(勝真)

「もう、もう!」


 悪戯に怒る葵衣に素直に従うふりをして背を向ける。

 ただこれだけのことで照れて怒り出す葵衣は、昔と変わらずとても可愛い。


 目が覚めた時に漂うコーヒーの香り。

 最初にコーヒーのドリップに挑戦したのは、この家で二人でだった。

 缶コーヒーや甘いコーヒー飲料よりも、コンビニやカフェのブラックコーヒーを好んでいた勝真に、葵衣がふと思い立って家でも淹れてみようと言った。

 試行錯誤の研究でしばらくはコーヒー三昧の日々が続いた。

 ここの店の豆が美味しいだとか、こんな時はこの種類を選ぶだとか。一通りのパターンが出来上がった頃には、葵衣は当たり前のように勝真にコーヒーを淹れてくれるようになっていた。

 課題に追われた夜中に目を擦りながら、自分だって寝不足の朝にうーうー唸りながら。

 就職してからは、遅くまで仕事をしている勝真が少しでも長く眠れるようにと、毎朝せっせと朝食を作ってくれた。

 朝起きた時に漂うコーヒーの香りは、いつだって葵衣が勝真を想う気持ちの表れで。

 幸福な一日が始まる合図のようだった。


 そこにあるのがありがたくて。得難い奇跡に縋りたくて。

 気が付けば抱きしめていた。



 葵衣の毎日が幸せだったというのなら、最後まで。

 残り少ない時間の最後までずっと、幸せでいて欲しい。

 勝真にできることは他には何もない。

 葵衣は勝真のためにここに戻ってきてくれるほど優しくて、頑固で、芯が強い。

 ある日突然葵衣を失ったことで悲しみに暮れていた勝真の前で、ある日突然全てを失った自分を嘆くことはない。

 本当は、悲しいのも、やりきれないのも、葵衣のほうなはずなのに。


 故意ではなく不注意や体調不良なんかだとしても。

 どうして何の関係もない葵衣が事故に巻き込まれなくてはならないのかという怒りはあった。

 誰に向けていいかもわからない怒りだった。

 事故を起こした当人たちも怪我を負っていた。決してそんなことになりたくはなかっただろう。誰かのせいだと言いきれてしまう過失があったならば、その人を責めることができたかもしれない。だが、決定打はない。

 本当のことは、多分わからない。司法が入ればなおさら、真実は丸く収まる方向にしか動かないだろう。

 それに、その場に葵衣がいたことは、誰の責任だっただろうか。

 葵衣の責任でもあり、おそらく勝真の責任でもあった。

 そんな中で勝真が確実に恨めるのは、自分しかいなかった。


 だけど、葵衣は誰も恨んではいない。

 やりたかったこともたくさんあっただろう。楽しみにしていたこれからもきっとあったはずなのに。理不尽に何もかもを失ったのだというのに、恨み言ひとつ言わなかった。

 幸せに終わりたいのだ。

 なくなってしまったこれからを惜しむのではなく、今まで手に入れたものを大事に抱えて。自分は幸せだったと笑っていたいのだろう。


 だったら、勝真にできるのは、せめてそれを叶えることくらいだ。

 時が来るまで。最後まで。葵衣が幸せだったと笑えるような細やかな日常を過ごすのだ。いつか葵衣が安心して眠れるように。



「俺はね、花が好きな訳じゃないんだ。いや、嬉しいよ?嬉しいけどさ」


 付き合い始めた頃は気を引くのに必死で、花を見に行くのが好きな葵衣に何度か花束を贈った。

 葵衣は頬をにやけさせながらも、少し言いにくそうに視線をもじもじとさまよわせてから眉を下げた。


「俺はどんくさいから、のどかな場所が落ち着くんだよ。ゆったりと時間が流れてる感じが、俺にはちょうどいいの。

 だからね、花束は嬉しいんだけど、こんなにしてくれなくていいよ。花はどこかで咲いて、枯れて、また来年も咲いてくれればそれでいいから。

 それで、また一緒に見に行けたら……うれしい」


 ちょっとばかり不安そうに様子を伺う視線を投げかけてきた葵衣の姿を覚えている。

 あの頃の葵衣は、自信がなくてすぐにオロオロして、いつも言いたい事を飲み込んで困ったように笑っていた。

 勝真に心の内をあかせるようになると、頻繁に俺なんかといいながら泣きぐずった。


 他人に無関心だった勝真の心にいつの間にか住み着いていて、それに気づいた頃からずっと、勝真にとって葵衣は可愛くて守りたい存在だった。

 生き生きと憚りなく喜怒哀楽を顔にも態度にも口にも出せるようになった葵衣の姿に、たくさんの思い出が重なる。

 葵衣が守りたいのは、きっとそういうものなのだろう。


 だから、勝真はそれを守ろうと思った。


 この優しい日常が葵衣の望むものだから。

 はからずも、自分もそれを望んでしまっているのだけれど。

 最後に葵衣にしてやれることは、もうそれだけしかないのだ。

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