きおく(奏良)②


 男を邪見にするようになると、存外と簡単に縁は切れた。男の出現する界隈に足を運ばなくなったこともあるのかもしれない。

 だけども、奏良は味をしめていた。

 男は確かに耐えがたい変態ではあったが、食事を奢ってくれたし、時には小遣いを握らせてくれていた。身ぎれいにできるよう洋服や生活用品も買ってくれた。やる事さえ我慢してしまえば、シャワーを浴びて綺麗な布団で眠れた。

 世の中には、貧相で可哀想な少年に劣情を抱く変態がいる。それは活路でもあった。

 物を盗むよりもリスクが低かった。

 バレた時に警察に突き出されるだけではない。それまでに殴られたり蹴られたりすることも普通にあった。しばらくは目をつけられるから、失敗すると次が難しい。


 奏良は、『大丈夫そうな変態』を探すことに注力した。

 手枷と首輪をつけられて狭い部屋に監禁されそうになったり、刃物で浅くたくさんの傷をつけて弄ばれたり、生きている玩具として思い通りになるように怪しい薬を盛られたりなど、命からがら逃げだしたことも何度もあった。

 年端の行かない少年を自分の欲望で愛でようとする相手は、ほとんどが『常識』の域をはみ出している。最初から法にも良識にもとらわれていない、狂った変態が大半だった。

 そんな大人は、奏良の生死すら気にしない。いかに自分が楽しむかだけなのだ。


 危ない橋ではあった。面倒だし気が重くもあった。

 だけど、金が欲しかった。

 同時に、死んでもいいと思っていた。

 寒さや暑さや渇きや空腹は生きている限り常に辛さを感じるものだった。でも、怖いのは脅威が目の前にある時だけで、痛いのも苦しいのも気持ち悪いのも、ひと時だけ凌いだら続くわけではない。

 いつか殺されるかもしれない。そうしたら終わるのだから、その時はその時だ。


 奏良は、死んでいないから生きてきた。ずっと、ただそれだけだった。

 心も感情も、遠い記憶の向こうに消えてしまっていた。



「朝ごはんはいつも簡単なものなんだ。ごめんね。早起きが苦手でさ。あ、食べたいものがあるなら作るよ」


 綺麗に焼けた目玉焼きをお皿に移しながら、葵衣が奏良に語りかけた。

 トーストの香ばしい匂いに、ドリップしたコーヒーの匂い。

 皿の上には生野菜の緑に昨日の残りのポテトサラダが添えてある。葵衣が持った菜箸の先にあるのは、カニの形にカットされたウィンナーだ。


『それ、そういうの昔は羨ましかったな』


 幼い頃に他の子のお弁当に入っていた飾り切りのウィンナー。奏良は、お弁当を見せ合って自慢する子たちのかたわらで菓子パンをつまみながら、幼心に憧れを抱いたことを思い出した。


「味は変わらないけどね。あ、でも端っこのカリカリしたところは好きかも」


 皿にはカニの隣にタコが並んだ。その隣に、初めて見たウサギとペンギンがちょこんと乗っかる。


『うわー、すご。葵衣さん器用だね』


「俺、不器用だよ。でもね、うちのお母さんはもっと不器用で、リンゴひと玉からウサギ一匹かろうじて成功するくらいでね。だから、俺も昔は羨ましかったな。それで練習したの。役に立たない特技だけど」


 思わず感動した奏良に、葵衣は照れ笑いをこぼした。


 簡単だと言いながら、葵衣が手にした白い皿の上はカラフルで鮮やかだった。

 幼い頃に憧れた、決して手が届かないお弁当のように。

 ただ腹を満たすためだけじゃなく、食べる相手の心をも満たすような、心を込めた食べ物だ。

 奏良が羨ましくて憧れていたものは、お弁当でも飾り切りのウィンナーでもなくて、それを作ってくれる人だったのかもしれない。そう初めて気づいた。


 決して手に入らないと思っていたそれを与えられて、奏良は幼い自分が求めていたものを知った。


『普通』の人みたいに愛されたかった。

 守って欲しかった。助けて欲しかった。

 当たり前のように、生きていていいと許されたかった。


 その全てが、今ここにはある。



「良い匂いがする」


 不意に後ろから抱きしめられて、葵衣はびくりと身を竦ませた。ふわりと降ってきた体温が、奏良の身体の額を掠めてがじりと耳をかじった。


「!!!!!!」


 完全に固まった葵衣の手が取り落とさないようにと、ちゃっかりと皿を取り上げている辺り、これは完全に故意なのではないかと奏良は口笛を吹きたい気持ちになったけれど。

 激しく脈打ちだした鼓動に耐えるように、葵衣はぶるぶると拳を握って叫んだ。


「な、なに、なにしてんの!寝ぼけてないで顔洗ってきな!」


「ハイ」


「もう、もうっ!」


 言葉を失ってプンスカ怒っている葵衣に、勝真は素直に頷いて洗面所に向かった。

 その口元が笑っているのにも、葵衣はまんまと気づいていないのだろう。


 胸がドキドキする。


 葵衣はけっこう照れて恥ずかしがってばかりだけど、一つの心臓を共有している奏良には、それだけじゃないのが常にわかった。

 いろいろな感情が入り乱れて、そもそも感情少なに生きてきた奏良に、正確にこれということはできないけれど。

 この胸は愛しくて恋しくて高鳴っている。


「ごめんね、奏良くん」


『あはは、気にしてないよ。だから俺のことは気にしないで』


 奏良は律儀な葵衣へと、心から笑って言葉を返した。


 嬉しくて、満ち足りている。

 その想いは、葵衣のものだけなのか。一つの身体に共存している奏良にははっきりとわからない。


 ただわかるのは、この胸にいつも幸せな気持ちが溢れているということだけだった。

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