よぞらのきせき(葵衣&奏良)

『よかったね、葵衣さん』


 いつの間にかぼんやりと霞んだ視界に奏良の声が響いて、葵衣は慌てて目元を拭って立ち上がった。


「ありがとう……奏良くんのおかげ。でも、嫌じゃなかった?」


 寝室からそっと抜け出しながらちらりと眠る勝真を振り返り、葵衣は奏良に尋ねた。

 葵衣にとっては何よりも大事な人に違いないのだが、奏良にとっては見知らぬ人間でしかない。それも随分と年上の同性だ。この状況に嫌悪感を覚える人間は少なくないのではないかと思う。

 そんな葵衣の心配をよそに、奏良は笑った。


『全然。むしろ俺の身体の方が薄汚れてて謝りたいくらい』


 奏良のどこか自嘲を含んだ笑いに、葵衣は何となくその言葉に含まれた闇を察した。

 だからこそ、軽く受け流して笑い返した。


「よし、じゃあお風呂入ろう。綺麗さっぱり洗い流せばいいよ」


 キッチンへと向かい冷蔵庫を覗き込みながら、葵衣は響かない程度の声で答えた。

 さすがに三週間余り使っていない冷蔵庫に食材はない。ダメになったものを勝真が捨ててくれてただけ惨状を免れただろう。

 幸い米はまだ無事だ。あと、使えるのは冷凍庫に残っているものと乾物、調味料くらいか。

 手際よくキッチンの状態を把握してまわる葵衣の頭の中に、無邪気な奏良の笑いが響いた。


『そういう意味じゃ、……あはは、でもそういう意味でも汚れてるからしゃーなし』


 米を研いでたっぷりの水と一緒に鍋に入れ、火をかける。

 飢餓状態から急激に食事をとるのは危険だと聞いたことがある。考えただけでも弱った胃腸にダメージも与えそうだ。

 本当は病院に行くのが一番良いのだろうが、勝真はきっと受け入れないだろう。

 勝真が病院を退院してから一週間程度。病院にいる時はそれなりの食事をとれていたのだから、あれをまねてゆっくり少しずつ食事をとって貰おう。

 冷凍庫を吟味して、シーフードミックスから拾い集めた貝柱を鍋に落とす。沸騰した中身をかき混ぜて火を弱め蓋をして、それからようやく一息ついた葵衣は思い至った。器用ではない葵衣は作業中はついそちらに集中してしまう。今更ながらはっと気づいた。


「ああ、でも、奏良くんの身体を勝手に洗うのは、プライバシーが……」


『そんなの、別にいいよ。どっちかって言うと、葵衣さんの気持ちも行動も全部見てる俺のほうがプライバシー侵害してるし』


「いや、身体借りてるんだしそれは仕方ないっていうか」


『そうだね。一緒の身体に居るんだから慣れるしかないよ。どうせ死ぬつもりだったんだし。俺は別に気にしないから』


 奏良は楽しそうに明るい声でそう語った。その軽々しさが葵衣には悲しく響いた。



「ううう……少年の身体に触るとか犯罪のよう」


『そんな罪悪感抱かなくても。俺これでももう十八歳だし。本当に汚いやつらは、もっと若くたって何のためらいもなく好き勝手するのにさ』


 葵衣が観念してシャツを脱ぎ捨てると、奏良の見かけ以上に細い身体が露わになった。薄くあばらが浮いた胸や背中には、まだ青みののこる打撲痕から、古い刺し傷まで無数の傷跡が浮かんでいた。

 下腹部に煙草で焼かれたような丸い火傷の痕が痛々しく並んでいる。


 いったいどんな風に生きたならばこんな酷いことになるのだろうか。

 葵衣は絶句した。

 奏良が何の気もないように語る言葉の現実が、そこには刻まれているようだった。


『こんなろくでもない身体でも、最後に葵衣さんの役に立てたならよかったよ』


 奏良は無邪気に笑う。

 どれだけ苦しめば、こんな非道を笑えるというのか。


「奏良くんがいてくれてよかった」


 この少年が生きていてくれてよかった。

 悲しさや、憤りや、苦しさがぐちゃぐちゃに混ざり合って、奏良のまだあどけなさの残る瞳から零れて行った。


『もう、泣かないでよ葵衣さん。俺は今最高に、悪くないって思ってるんだから』


 そんな葵衣の様子を微笑ましそうに見ている奏良の存在に、なおさらもどかしさが募うものの、言葉にはならない。葵衣は奏良の境遇が想像もできないのだ。

 恵まれていた。自分の人生は恵まれすぎていた。そう思うほどに。


 シャワーの湯を流す。

 この身体に染みついたたくさんの傷が、流れてしまえばいいのに。

 そんな思いで、葵衣は優しく、丁寧に奏良の身体を洗う。抱きしめることができない代わりに、大事に、大事に。



『葵衣さんって、料理上手なんだね』


 葵衣の気持ちを知らずに、奏良はけろりとした様子で雑談を始めた。

 自分の傷跡にすら気づいていないのだ。こんなにも傷つけられていいはずがないのに。

 いつかそれを知って欲しい。そう願いながら、葵衣は奏良へと言葉を返した。


 ほんの少し前に出会った奏良と人間を、知りたいと思う。知って欲しいと思う。いつか分かり合いたいと思う。

 ……奏良もそう感じていたならばいいとも思う。


「ずっとしてきたから。実家にいた時はしたことなかったけどね。大事な人が食べてくれるから、料理っていいなって思ってさ。上手ってほどでもないけど、勝真とここに住んでもう十年だ。それなりにはなったよ」


『へえ。付き合いすっごい長いんだ?』


「付き合い自体はもっと長いよ。高一で出会って、二年で付き合ったから。クラスが離れたら、逆にべったりになって。

 俺の頭の出来が悪いから、勝真と同じ大学に行くの厳しかったんだ。そうしたら、同じ大学に行かなくても一緒に住めばいいって。進路は自分の為に考えろって。格好いいでしょ?」


『あはは。仲いいね』


「見てわかる通り」


『そうだね。流れ星になって突撃してくるくらいだもん』


「そこはごめんって言っていいのか、ちょっと迷うなあ」


『うん。想定外だったけど楽しんでるよ。だから、よかったな』


 あの暗い夜空の下で、奏良と出会えたのは奇跡だった。

 奏良が身体を貸してくれたおかげで、もう一度勝真と会えたことに感謝している。

 それと同時に、あの暗闇の中で全てを失ってしまわずに、奏良が今楽しいと言ってくれることも。かけがえのない奇跡だ。


 身体を覆った泡を流してゆく。


 悲観も同情も、悦に浸るだけの涙も必要ない。立ち止まる暇はないはずだ。

 今、奇跡が起きているのだから。

 願いが叶うのを待っているのではなく、願いを叶えるのは自分自身だ。


「奏良くんの好きな食べ物はなに?君のために作るよ。まあ、今は冷蔵庫が空っぽなんだけど」


 君が生きていてよかった。君には輝かしいほどの価値がある。

 自分に無関心な奏良へ、まずは出来得る限りそれを伝えようと葵衣は決心した。

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