あじさいはかれてしまっても(葵衣&勝真)

「まったく、病人みたいな顔してさ。ちゃんといるから、まずは飲んで休みな?」


 奏良の身体が小柄だからか、いつもより大きく感じる勝真の背中を伸びあがって片手で撫でながら、葵衣は怒った口調で言葉を連ねた。

 耳元に聞こえる嗚咽も、震える肩にも、気づかないはずはない。どれだけ苦しんできたのかを知っている。届かなくてもずっとこの三週間ちょっと見てきたのだから。

 泣きだしたいほどの想いが胸に渦巻いていた。

 だけど、その中でも勝真を心配する想いが先に立った。


 葵衣を抱きしめたまま動かない勝真を引っ張って部屋の中へと促すと、葵衣の頭上に俯せたまま勝真が仕方なさそうに足を動かす。前もろくろく見えない二人羽織りのようなちぐはぐな動きで、ずいぶんゆっくりとしか進めない。

 まるでふざけているかのような動きだが、葵衣はこれが勝真の精一杯だと理解していた。


 葵衣は不器用で人見知りで落ち着きがない、天然ボケなぽんこつ人間だった。

 だった、というのは、勝真と長年生活を共にするうちに、要領や素質なんかは変わらないものの、精神的には少し前向きになった部分もあるからだ。

 一方、勝真は昔から何でもそつなくこなすハイスペックな人間と思われていた。

 そうではないと知っているのは、葵衣くらいだろう。


 勝真は人に弱みや努力を見せるのを嫌う、負けず嫌いの格好つけなだけなのだ、と葵衣は知っていた。

 裏でどれだけ努力しても、平然とした顔をしていたい。どれだけ嫌なことや辛いことがあっても、平気なフリをしていたい。

 その裏で、全部自分ひとりで抱え込んでしまう。

 頼ったり、甘えたり、素の表情を見せるのは葵衣にだけだった。

 二人の関係を知っている友人たちには、頼りな葵衣が勝真に一方的に抱えられているように思われていただろう。

 だが実際は、勝真の方が精神的に葵衣に支えられていた。


 勝真が一人でどれだけ頑張っていたのか知っている。

 この状態を叱らなければならないから、葵衣は労う気持ちも慰めたい気持ちも言葉には出せない。その分慈しむように勝真の背を撫でた。


「ほら、もうちょっと。頑張って歩きな。ちゃんとベッドで寝なきゃ」


 辛抱強く背を撫で、素っ気ない声で励ましながら。葵衣は遅々とした歩みで狭い居室を横切り、ずいぶんと使われていない寝室へと時間をかけて離れようとはしない勝真を誘導した。

 二人の間に葵衣の片手ごと挟まったペットボトルの冷たさが、生きている身体の温かさを知らしめて、どこかで安堵を覚えていた。



 押し倒すようにベッドに座らせると、ようやく勝真は顔を上げた。少年の顔で仏頂面を作った葵衣をじっと見つめて、また葵衣の名を呼ぶ。

 葵衣が淡々とペットボトルの蓋を開けて差し出すと、勝真は大人しくそれを飲んだ。


 ゆっくりとスポーツドリンクを飲み干す勝真の姿を見下ろしながら、葵衣は深く息をつく。

 よかった。……よかった。

 ぐるぐると思考は定まらないけれど、心から安心して込み上げた喜びがあふれてしまわないよう、ぐっと喉を絞めて踏ん張った。


 それでも、少しくらい甘やかすことは許されるだろうか。

 耐え切れずに葵衣が勝真の頭を撫でると、勝真は泣き濡れたまま幸せそうに微笑んだ。


「飲んだら休んで。目が覚めてもここにいるから。約束する」


 冷たくするフリすらできずに優しく諭すと、勝真は大人しくベッドに横になった。

 縋るように手を伸ばされると葵衣は拒否することなどできない。

 片手を繋いでベッドの縁に座り、弱りきって夢うつつをさまよう勝真が眠るのを見守ることにした。



「……紫陽花、見に行けなくて悪かった。もう枯れてしまっただろう」


 ぼそりと懺悔の言葉が勝真の口から零れる。


「馬鹿だなぁ、かっちゃん。今までもそんなことはあったでしょ。紫陽花の時期が過ぎたら、すぐに向日葵が見ごろになるよ。秋には秋桜が咲いて、冬には水仙を見に行ったじゃない。たくさん、数えきれないくらい、一緒に見たよ」


「……そうか。そうだな」


「そうだよ。そんなことは、ただのおまけみたいなものじゃない。大切なのは俺と勝真が楽しかったかどうかなんだから」


「でも、家のことだって葵衣に任せっぱなしで」


「俺は家事、苦じゃないし。俺の少ない給料を補ってくれてるのかっちゃんじゃん。時間がある俺が任されても普通じゃん」


「葵衣に頼りっぱなしだった」


「俺はかっちゃんが頼ってくれるの、いつだって誇らしかったよ。愛されてるなって」


「だけど大事にはできてなかった」


「世界一大事にされてたよ?誰だって時間には限りがあるんだから、仕事が忙しい時に他にかける時間が減るのは仕方ないじゃない。勝真は時間の限り俺を大事にしてくれてた。それ以上は誰だって不可能だろ」


「雑に、抱いた」


「う、……そ、それは、そういうのも嫌いじゃないからノーカンで。あれは愛です!」


「ただの欲望かもしれない」


「それは誰でもよかったってこと?」


「そんなはずがない」


「じゃ、愛です」


 重たげな瞼が落ちても、ぽつりぽつりと勝真は懺悔するように降り積もった後悔を呟き続けた。

 葵衣はその言葉を奏良の声音を借りて、ようやく全部否定することができた。


 掠れた声が聞きとれなくなって静かな寝息が響くまで、葵衣はしばらく勝真の手を握り続けた。

 眠りについた勝真の表情は、久方ぶりに穏やかに満ち足りていた。

 葵衣が紫陽花の代わりに見たような、愛しい愛しい寝顔だった。

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