きらきらひかるあたたかい(奏良&葵衣)

「死んだら銀行口座って凍結されるっていうよね。電子もチャージ分はいけたけど銀行もクレジットも無理かもだし、とりあえずはかっちゃん起きた時に俺がいないと探しそうだし、へそくりでネットスーパーしかないかな……勝真が正気に戻ったら色々確認しないと」


 炊きあがった粥の鍋の前で腕組みしてうんうん考え込んでいる葵衣に、奏良はついふきだした。


 葵衣が奏良の身体に宿ってから、まだほんの数時間だった。

 だけど、奏良は葵衣がどんな人間かすっかり理解できていた。

 素直で、一所懸命で、優しくて。しっかりしている所もあれば、ちょっと抜けているところもある。お人よしで、根っからの善人なのだろう。

 奏良の身体に浮かぶ感情の余韻は、常に温かくて心地良かった。


 葵衣が勝真に向ける感情に、初めて心が震えた。

 それは自分のものではなくて、全てを理解することもできなかったけれど。

 行き交う人が笑う意味も、何の解決もしないのに涙を流す意味も。自分の心に直接に、実感を伴って教えられた。


 そして、葵衣が奏良へと向けた感情も。

 葵衣の考えていることまではわからないけれど、一緒の身体に響く感情を偽ることはできない。全て本物であることが確かなのだ。

 葵衣は嘘偽りなく奏良のことを好意的に思ってくれている。その想いがあまりに温かでうれしかった。


 だから、葵衣はあんなにも勝真に愛されて必要とされている。

 葵衣はそれだけ想われて当たり前な人間に思えた。


 眩かった。

 葵衣の感情が刻むきらめきは、自分が今まで見てきた世界がモノクロームだったかのように、何もかもを鮮やかに色づけていた。



 奏良は「普通」をわかっているつもりで、昔はその「普通」になりたかった。

 物心ついた時から自分に関わる大人は母親しかおらず、その母親は奏良に無関心で時には邪見にされた。

 母の隣にいる男はコロコロと変わったが、その男もほとんど奏良に友好的ではなかった。無関心や煙たがられるくらいならまだマシで、罵られたり、いわれのないことで罰されたり、時には暴力や性的に接触されることもあった。

 母は普段は奏良へ関わろうとしないだけだったが、酒を飲むと暴力的になる。それでも程度をわきまえていて、その場のほんの少しの苦痛をしのげば後を引くような傷や不調は残らなかった。

 そんな母は奏良が中三の頃に暴力的な男を連れてきて、一緒に奏良をいたぶるようになった。


 幼い頃から中学生まで、奏良はたびたび児童相談所の介入を受けた。だが暴力を受けるようになる頃までは、奏良が受けていたのは生命に関わらない程度の育児放棄だけであり、介入は注意で終わった。

 それでも母はその度に不機嫌になっていたから、奏良はなるべく介入されないようにを考えて行動していた。


 学校では家庭で十分支援されない子として、貧困家庭の子どもと一緒に保護を受けた。教員や支援者は励ましてくれたし、自分も普通になれるのだと少しだけ希望も持っていた。

 困難を打開できる強い人間になって欲しいと願われた。そうなれたらと思った。


 だけれどそんな善意の大人たちは奏良を見ているのではなく、自分の役割として、自分の傘下にいる『可哀想な子』への慈善活動に勤しんでいるのだと気づいた。

 奏良が家に帰りたくないと言っても、励ましか助言しか返ってこなかった。自分の権限の範疇を超えると罪に問われるのだと言われれば、自分へ良くしてくれる相手を困らせることはできなかった。


 母が連れてくる男によっては、奏良は家に帰れないことがあった。

 学校が休みになれば腹を満たせないから、盗んだり身体を売る事をしていた。他の悪行をやってみて失敗したこともある。繰り返し行う非行で警察や補導員に目をつけられていた。

 奏良は『非行少年』だった。

 人の善意を知っていて、善悪の区別がつくからこそ、自分のしていることが悪いことだと自覚していた。それが善意の人間を失望させることだとも。

 何もかも諦めて、もういいやと思うことも何度もあった。だが、飢えてぼーっとしている時に餌を見せつけられると求めずにはいられず、結局悪行を繰り返した。


 そんな悪人が、どうして他人に助けて欲しいなんて言えるだろうか。

 何もかもを黙って受け入れるしかなかった。


 どうやったら困難を打開できる強い人間になれるのか。何の力もない奏良にはどうしてもわからなかった。

 やがて中学を卒業し、非行少年が家にいないだけだとされて善意の他者と関わることもなくなれば、希望を持っていた頃が儚い夢のようにさえ思えた。


 希望を失ってしまった世界は、ただ生きているから目の前に存在しているだけの、色褪せたものになった。

 こんな何の役にも立たないくだらない人間なのに、自分の生存本能ゆえに生きるしかないのは、窮屈で面倒だった。



『葵衣さんはいい人だね』


 心に直接響いてくる葵衣の好意を受けて、奏良は本当に良かったと思っていた。

 こんな自分が最後に葵衣の役に立てたことが嬉しかった。

 眩く温かい気持ちを知ることができて、自分が役に立った結果を目に見ることができて。感謝されて、気遣われる。

 最後にいい思いができたことは、十分すぎる報酬に思えていた。


「そんなことはないよ。俺だって怒ったり愚痴や悪口言ったり、ちょっと性格悪いとこあるんだから」


 葵衣がちょっと頬を膨らませて、まるっきり善人のような柔らかい顔で笑う。とうてい悪いことができる顔はしていない。

 それが奏良にはただ面白かった。今は何の不安もなくて、何もかもが楽しい。


『へえ、怒りそうにないのに』


「けっこう短気なんだから。でも単純だからすぐに忘れるっていうか…」


 ちらりと遠くを見てから、葵衣の視線がうろうろとさまよった。

 少し俯いて、はにかむようにわずかに奏良の顔で口元を緩ませる。

 奏良は、見慣れたはずの自分の顔がそんな表情を作ることができることにうっすらとと驚いた。


「俺がムキーってしてると、かっちゃんが膝に乗せて赤ん坊みたいに甘やかすの。腹が立って、気が立ってるんだけど、そんな風にされたらだんだん愚痴より恥ずかしさが勝ってどうでもよくなるっていうか、はぐらかされちゃうんだよ」


 照れくささを誤魔化すかのように、葵衣は手際よくキッチンを整えだした。

 部屋の主があんな状態だったにも関わらずさほど散らかってはいないが、手入れはされていないようだった。葵衣が慣れた様子でさっと拭きあげたり、手早く洗っていくだけでみるみると見違えて生活感を取り戻してゆく。


「それ性格悪い要素ないし」


 ドキドキとこそばゆい胸の高鳴りを感じながら、奏良は微笑ましく葵衣を眺めていた。

 ほんの少し時間が経つだけで、ほんの少し葵衣のことを知るだけで。

 どんどん眩しくて温かい煌めきが胸の中を満たしていった。

 だからこの人はこんなにも愛されて必要とされていたんだという思いがどんどん強くなって。

 同時に、この人の役に立てて良かったという喜びが満ちていった。

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