星になった幽霊と星を宿した少年の話
あじさいはかれてしまった(勝真)
紫陽花は今頃もう枯れてしまっただろう。
なぜあの時に見に行かなかったのか。
そうしていれば、最後にもう一度、
薄暗い部屋の中で、桐ケ
あれはもう、一月ほど前になるだろうか。
その日は激しく雨が降っていて。本当ならば落ち着いていたはずの仕事のスケジュールがおしていて、疲れていたのは確かだった。
眠い目を擦りながら起きて寝室から出ると、キッチンからコーヒーの香りが漂っていた。手元には作りかけの朝食……火を入れるものはまだ空っぽで、もしかしたら勝真を起こす気はなかったのかもしれない。
「おはよう、かっちゃん」
勝真に気が付いて振り向くと、葵衣はほほえんだ。遠くに雨のぶつかる音が響く中、キッチンの小さな窓から外を眺めて見せて、わざとらしく肩を竦める。
「今日は大雨だって。出かけるのは今度にしよっか?かっちゃんずっと忙しいでしょ。今日くらいは休みなよ」
葵衣は当たり前のようにそう勝真の事を慮った。
甘えていたのだと、勝真は思う。
高校で出会い、好きになって、口説き落とした。高校を出る時に同棲を初めて、十年になる。互いに就職してしばらくで、お互いの両親にも顔合わせをした。
同性で紙面上の誓約が認められていないのだから、それ以上のゴールはほとんどないに等しい。
二人の関係は、実質伴侶とも言えた。
だから、長年の生活の中で、どこか甘えていた。
「先にシャワー行ってな。俺、ちょっとコンビニ行ってくる。パンがなかったの忘れてた」
それが最後の会話になるなんて思わずに、大して気にも留めず葵衣を送り出した。
疲れ果てた仕事帰りに買い物を頼まれなかったことに、少し安堵したくらいだった。
眠気に抗いながらシャワーを浴びて戻ると、鳴り続けていたらしいスマホに知らない着信履歴の山。
「この方の縁者でしょうか?緊急連絡先として記されていましたので。〇〇番地の路地で、乗用車の衝突事故に巻き込まれまして……ただいま救急搬送中です」
もう二度と、葵衣と会えなくなるなんて考えた事がなかった。
もしあの時、葵衣が出かけたりしなければ。
今もまだここにいたのだというのに。
勝真のことをいつも気遣っていた葵衣。
勝真が疲れた顔をしていなければ、仕事帰りに買ってきてと連絡一つで済ましたのかもしれない。
そうすれば葵衣は死ななかった。
もっと葵衣を気にかけて、貰うだけではなく、自分も葵衣のために行動していれば。
勝真は深く激しく後悔していた。
そして、わからなくなってしまった。
虚勢ばかり張って生きてきて、仕事で認められるだけの結果を残して、
いったい何がしたかったのだろうと。
「すごいなぁ、勝真」
「いつも頑張ってるもんね」
「かっちゃんは格好いいよ」
無邪気に笑う姿はもうどこにもない。
何のために生きていたのだろうか。
それすらももうわからない。
何のために生きているのだろうか。
考えることにも疲れてしまった。
勝真はただ待っていた。
葵衣が玄関のドアを開けて帰ってくるのを。
現実で有り得ないことは知っている。
現実でなくてもいい。夢でもいいから。
葵衣の葬儀の後、法的に他人である勝真ができない諸々の処理を葵衣の両親と共にして。
その間、何もかもが億劫になった勝真は、二週間で倒れた。
勝真の事情を知る同僚が訪ねてきて発見し、重度の鬱で強制入院。
その時から、勝真は不安で仕方なくなった。
何も考えられないのに、不意に葵衣を失ってしまう気がして不安でしかたないのだ。もうこの世にはいないというにも関わらず。
平常なフリをして、引き留められるのも聞かずに退院した。
十年の月日を共にした家の中は、いつかの葵衣の思い出に満ち溢れている。もう会えないその想い出が浮かぶ度にひどく狂おしくはあったけれど。
面影すら感じられない世界には苦痛しかなかった。
水を、飲まないと。
重い体を起こして、勝真は立ち上がる。
部屋に散乱したゴミに目もくれず、いつ放置したかわからない飲みかけのペットボトルを放置して、キッチンの水道から直接水を飲んで、そこでも葵衣の姿を探した。
面倒だけど、倒れたらまたここから引き離される。
それを避けるためだけに、倒れない最小限の水分は取っていた。
冷凍庫に入っていた葵衣の作り置きの弁当のおかずもとうとう尽きてしまったから、もう食べたいと思うものもない。
それでも少し何か栄養を取らなければ、またここから引き離されてしまう。
だけど、考えるのはひどく億劫だ。
結局、そのままぼんやりと居室のソファーに戻ってきた勝真は寝転がって天井を仰いだ。
小さな2Kの部屋は二人にとって居心地が良くて、大学を出てからも転居しなかった。居室の他には寝室だけで、居室からは玄関が見える手狭な造りだ。
ここで寝ていると、いつも葵衣が起こしに来た。
葵衣が起こしに来てくれるから、ここで寝ていたのかもしれない。
勝真は重い瞼を閉じる。
目の裏には、幸せだった想い出がたくさん焼き付いていた。
いつだったか、この部屋に越してきたばかりの頃か。
睦み合った後に、葵衣がふざけて口を尖らせて言った。
「浮気なんてしたら、俺、化けて出てやるんだからね」
勝真は僅かに口の端を上げて吐息を零した。
「浮気でもしたら、化けて出てくれるのか」
未だ、涙は枯れない。
紫陽花はとうに枯れてしまっただろうのに。
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