第50話

 等間隔に置かれた電灯で、真っ黒い海面が照らされている。車が何台かとまっている駐車場に来て、立ち止まった。栄治は低い堤防の上に立って、告げた。

「ここから飛び降りて、大紀は死んだ」

 僕は栄治を懐中電灯で照らした。栄治が光を遮って、「やめろ」と拒んだから、手を下した。

「俺のことを呼んだけど、いかなかった」

「………………」

「きて」

 背負っていたリュックをおろして、僕も堤防の上に立った。

「とめなかったの?」

「………………」

 二人で黒い海を見つめた。遠く遠く、永遠に波が続く。

「本当にいなくなったんだね、大紀は」

 僕は栄治を見つめた。真っ白い肌が仄かに光る。息も白い。純粋に栄治が綺麗だと感じた。

「裕太、俺をつれてってよ」

 目が合った。栄治の瞳が光っている。涙の匂いがする。

「一人じゃ怖くて、いけないから」

 手首をつかまれた。

「そのために、僕を呼んだの?」

「それ以外に何があんの?」

「助けてほしいのかと思った」

 栄治は首を振る。

 僕は懐中電灯を放って、栄治の手首を引っ張り、堤防から駐車場に降りた。栄治は「はなせ!」と叫ぶ。僕は「絶対に自殺させない!」と抵抗した。

「自殺じゃない」

 栄治は膝をつき、僕も屈んだ。

「人殺しだろう」

 栄治は何処からともなく取り出したナイフで、僕の手首を切ろうとした。僕は逃れたけど、手の甲から血が流れた。痛みが響いた。

「僕と心中するの?」

「お前が死ななきゃ、俺も死なない」

 僕はナイフの切っ先を哀れんだ。

 栄治は自分を殺そうとしている……僕は自分を救おうとしている。自傷と自治が重なった。僕は「殺せるなら、殺せ!」と怒鳴った。栄治は怯んで、堤防にのぼると、「こっちにこい!」と挑発した。僕は栄治の隣にのぼった。栄治はテトラポットに降りて、僕を見上げる。僕もテトラポットに降りた。

 一緒に誰も届かない場所まで来た。三角形の岩の上で、急に大きな波音に襲われて、恐怖に浸された。

 栄治はテトラポットが途切れるところまで、危なっかしく進んだ。振り返って、「こい」と命令してくる。僕はついていった。海の淵で対峙した。

 栄治の白い手の中に、ナイフがある。凶器のはずなのに、死に瀕する小鳥みたいだ。乱れた息の音が微かに聞こえる。

 栄治が僕の首筋に触れた。何かを探している。

「……頸動脈?」

「うん」

「僕も探してやる」

 僕は『自分』の首すじに触れた。『栄治』は息を引き攣らせた。

「どうしたの? 頸動脈を切らずに死ぬの? 海に沈んで、溺れ死ぬの?」

 栄治の瞳が潤んでいる。怖くて、怖くて、仕方ないのだろう。

「どうする?」

 一瞬、栄治はかたまった。僕はすかさずナイフを奪って、海とは逆方向に突き飛ばした。その反動で、僕は海に落ちかけたけど、必死にバランスをとった。

 栄治はテトラポットにしがみついている。腰を抜かしたらしい。僕を見上げながら、「殺して」と頼んだ。僕は黙って、見下ろした。栄治は膝をとじて、蹲っている。

「裕太は生きなよ。俺は無理だ……恥さらしだから」

「そんなことない。戻ろう」

「嫌だ」

「じゃあ、自分で死ねるまで、そこにいる?」

 すると、栄治は殺意を剥きだした。

「偉そうにすんな! お前ばっかり、どうして……お前が死ねよ! お前が悪いんだろ!」

 僕はへたりこむ栄治に近づいて、ナイフを白い首にあてた。

「本当に死ねるの?」

 栄治は金縛りにあったように、かたまった。

「さっき、恥さらしだって言ったけど、当然だよ、僕達なんか」

 僕は少し強く、切っ先を栄治の首におしつけた。殺すためじゃない。生死をかけて、確かめたかった。何の為か知らないけど、栄治が自殺する意味があるのか、命を失う価値があるのかを。

「そのまま、切って」

 栄治は生きることを放棄した。目を瞑って、縋るように、祈るように、眠るように……涙が頬を伝っていく。僕は力を緩めた。そっと、ナイフを首から離して、栄治が目を開くまで待った。

 俺はゆっくり目を開けて、裕太を見た。赤い火傷が浮かんでいる。「なんで生きてるの」と呟いた。

「捨て子のくせに」

「そうだよ。僕は誰でもない」

「死にたくないの?」

「僕は生きたいよ」

「俺は死にたい……でも、死ねない」

「じゃあ、生きればいいと思うよ」

 栄治は刃のような目つきになって、急に立ち上がった。僕もつられて、立ち上がった。その勢いのまま、栄治は僕を突き飛ばした。

 裕太は海に落っこちた。激しい水飛沫があがった。心を切り裂く音が響いた。俺は海の波紋を見下ろした。必死に自分で自分を抱きしめた。

『殺した』

 俺も海に落ちようとしたけど、足がすくむ。嫌だ……俺だけ生きるなんて。でも、意志に反して、足は動かない。嫌な湿り気が脚に纏わりつく。さっき、裕太に突き飛ばされた時、俺は漏らしたんだ。まさに生き恥を晒している。臭くて、汚い。今まで散々、裕太に憎しみをぶつけて、偉そうにしてきたのに。嫌だ、嫌だ……何よりも迎えたくない惨めな結末だ。俺は海に向かって、叫んだ。

「裕太!」

 すると、裕太が顔を出した。必死に水をかいて、生きようとしている。

「助けて!」

 俺は海に手を伸ばした。裕太も海から手を伸ばした。やっと繋がって、何とか浮上することができた。

 テトラポットにしがみついて、二人で息を切らした。裕太は「海水のんだ」と呟く。俺は裕太を見れなかった。

 暫くして、海は静けさをとり戻した。尋常ではないほど寒くて、僕は震えが止まらなかった。栄治を置いていくわけにはいかないけど、このままでは溺死とは別の理由で死んでしまう。

 栄治は寒くないのか? ずっと膝を抱えて、蹲っている。もはや意地比べだけど、僕は我慢できず、「死ぬかと思った!」と叫んだ。栄治は震えて、僕を見上げた。

「海は暗いし、なんも見えなかった」

「………………」

「ナイフ、落としたけど、いいよね?」

「……いらない」

 栄治はやっと立ち上がった。

「俺だけ……ずっと、呪われる」

 僕は堪忍袋の緒が切れて、怒鳴った。

「いい加減にしろ! そんなに気が済まないなら、あとで僕を煮るなり焼くなりすればいいだろ? いくぞ!」

 無理やり栄治を引っ張って、テトラポットを、さっさと渡り歩いた。堤防にのぼって、駐車場におりて、やっと地上に帰ってきた。


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