第49話
勿来駅で電車を降りて、改札をぬけた。横断歩道の先にある小さな公園に、馬に乗った武将の像がある。それを見上げる少年がいた。
僕は横断歩道を渡って、「栄治」と呼んだ。栄治は振り返って、微笑んだ。すっかり痩せている。髪ものびている。三か月も会わずにいたことを、その姿で思い知った。
以前の栄治には、神秘的な美しさがあった。不遜で傲慢で儚かった。でも、今の栄治は力を剥奪されたように、生気が無くて、貧しい亡霊のようだ。髪も脂ぎって、服もよれよれで、清潔感が失われている。
「きてくれたんだ」
栄治の笑顔から、乞食のような卑しさが漂った。僕の心を食い殺そうとしていたのに。むしろ、僕から何かを恵んでもらいたがっているみたいだ。
「なんで、急にいなくなったの?」
「大紀と旅行してたから」
「旅行?」
栄治の身に起きたことを、全く想像できない。
「……心配したよ。僕のお母さんも、栄治と話したがって、連絡をとったんだけど、繋がらなくて」
「俺のことを捨てたくせに」
「違う」
僕は反射的に否定したけど、栄治は「違くない」と否定し返す。
「もう親を怨むのは、やめよう。どうにもできないから」
「怨んでない、呆れてるだけ」
「………………」
「俺も親も、皆、馬鹿」
栄治は弱々しく、嘲笑する。
「どうしようもないんだよ、きっと」
「やけに達観してんね?」
「だって、そうするしかないでしょう。僕だって、のみくだせないけど、しかたない」
僕にとって、両親を断罪しきることは、神話を捻じ曲げるのと同じくらい無理なことだ。あの二人が林檎を食べるのを阻止するぐらい、あの二人が木の周りを歩くのを阻止するぐらい……でも、そうしたら人間も世界も始まらない。
だんだん、栄治の目に殺気が蘇ってきた。
「大人になったね」
「そうなるしかないから」
「寂しくない?」
その言葉が何を意味するのか、やっと理解できた。寂しさを投影して、自分のものではなくしたいんだろう。これまでの栄治の言葉も、僕に憎悪を投影して、自分のものでは――自分だけのものでは――なくしたかっただけだ。たぶん、その効き目があって、今も栄治を放っとけなくなっている。
二人で一心一体になった。親を怨んで、どうすることもできず、矛盾した心の境にいる子どもなんだ。
「寂しいよ」
これまで、栄治の言葉に『なんで』『どうして』と理由を聞くか、反抗してばかりだったけど、僕はとうとうのみこんだ。栄治は震えるように、目を見開いた。
「栄治も寂しいよね?」
目を逸らして、答えなかった。それは「うん」という言葉と同じだ。
僕は話を逸らした。
「この馬に乗ってる人、誰?」
「……知らない」
「大紀さん、探しにいく?」
「……ついてきて」
一緒に歩きだした。栄治の方が少し前にいる。真夜中に見知らぬ街に囲まれて、心細かった。でも、栄治がいるから、きっと大丈夫なはずだ。
青い歩道橋を通り過ぎた。僕は「旅行って、どこにいってたの?」と聞いた。栄治は教えてくれない。
「今、どこに向かってるの?」
「大紀とはぐれたところ」
コンビニが見えてきた。僕は「何か買わない?」と誘った。
「いらない」
「僕は、お菓子買いたい」
本当に欲しいわけじゃない。そこで何か買わねばならない気がした。栄治が『駄目だよ』と許可しなかったら、理由を問い詰める気でいた。
でも、栄治は「いいよ」と許してくれたから、僕は明るいコンビニの中に入った。小さいチロルチョコを二つ買った。何味かは、どうでもいい。懐中電灯も買った。暗くて、怖いから。
コンビニから出て、栄治に「はい」とチロルチョコを一つあげた。栄治はすぐに手を出さず、睨んできた。「いらない?」と聞くと、やっと受け取った。栄治はチョコをポケットにしまって、「こっち」と案内する。僕は従って、細い道を歩いた。周囲には、何軒も家が建っている。栄治は何も言わず、T字路で右に曲がった。
「栄治の実家って、このあたり?」
「ちがう」
「じゃあ、どこ?」
「さあ」
「さあ、て何」
「どこでもいいじゃん」
「どんな家に住んでたの?」
「なんで、そんなこと知りたがるの?」
確かに、なんでだろう。不思議だ。栄治の家を知って何になるのか、僕は考えた。
「……栄治が、これまでどんな風に生きてきたのか知りたい」
栄治は「悪趣味だね」と嘲笑う。
「そんなことないよ。どうでもいい話しよう?」
栄治は溜息をつき、「ぼろい借家」と答えた。「でも、一軒家だった」とつけ足して。
「そこに大紀さんと住んでたの?」
「いつも女がいた」
僕は黙って、栄治の言葉を待った。でも、それ以上、語らなかったから、「女って、誰?」と聞いた。
「大紀の彼女。とっかえひっかえ」
その声音は冷たかった。
「栄治って、お父さんのこと嫌い、だよね」
「……嫌いじゃないよ、愛してもらえたもん」
声音が掠れた。
「僕も……色々あったけど、父さんも母さんも嫌いになれない。愛してもらったから」
のみくだせないものは、あってもいい。この時、僕の中で、両親の罪の決着はついた。あとは栄治だけだ。僕は祈るように、栄治を見守った。
いつの間に、関係性は逆転したんだろう。それとも、最初からこうだったのか。化けの皮を被っていただけで。
栄治は黙っている。僕も黙っている。
突然、栄治が左に曲がったから、僕もついていった。さらに細い道が続いた。僕は懐中電灯をつけた。少しひらけた場所にでた。
栄治がどこに向かっているのか、全く分からない。自分は今、何処を彷徨っているのか? 周囲には、誰が住んでいるか分からない家や、何を育てているか分からない畑や、白々しい電灯がある。栄治は立ち止まらない。彼にだけ、道筋は見えているようだ。
狭い道を一列になって、歩いていく。僕は栄治の背中を追う。風が吹いて、異臭がした。きっと、栄治は何日も体を洗っていないのだろう。
「あ」
思わず、僕から声が出た。急に目の前に灰色のコンクリートの壁が出現したから。
……何故だろう、嫌な予感がする。
懐中電灯に照らされて、丸い白い光が壁の中で揺れている。この壁の向こうには、何があるのか? なんとなく匂いで分かる。僕は震えた。強烈に死を感じた。
栄治は何も言わず、左に曲がって歩く。途中で、コンクリートの壁はなくなった。まだ工事が終わっていないらしい。その先に見えたのは、やっぱり――暗い海だった。
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