第44話
裕太が二階にいる間、明理は携帯を見ていた。連絡先には『お父さん』として登録されている伊藤健司と、『加藤さん』として登録されている加藤大紀がいる。
先に『お父さん』に電話をかけて、裕太と話し合ったことを伝えた。金で選んだと思われるのが屈辱的だから、「家族を選ぶことにした」と告げた。健司は不愛想だが、安心したように「そうか」と言って、「大紀には何て言うんだ?」と聞いた。
「これから電話する」
健司が裕太を心配したので、ちゃんと謝罪したと伝えると、満足したように、「俺も謝らないとな」と言った。明理は満足していないが、「裕太は優しい子だから、許してくれるよ」と言った。
今後のことも話し合って、電話を切った。勿論、転勤など嘘だから、今すぐ健司が家に帰ってきてもいいが、また裕太の心が搔き乱されたら困るので、高校生になって落ち着くまで、別居を続けることにした。その方が、明理にとっても、心が休まった。
健司とのやりとりが、思っていたよりも早く終わったことに、明理は寂しさを感じた。健司との人生を振り返って、一つの『もしも』を空想した。結婚してから数年間、栄治を妊娠するまで、健司との間には何も無かった。加奈をひきとろうと相談したけど、健司に拒まれていた。その間、明理が健司とセックスして、子を産めたら、運命は大きく変わっていたはずだ。大紀と不倫して、栄治を妊娠しても、健司は自分の子だと勘違いして育てたかもしれない。そうしたら、加奈も裕太もひきとらなかっただろう。歪んだ運命の歯車だ。明理は虚しい空想を払った。
『加藤さん』に電話をかけて、鳴り響く音を聞きながら待った。暫くすると、大紀が出てくれた。「今、話できる?」と聞くと、いつものように飄々としていない、切迫した声で「ああ」と言った。明理は『何かあったんだ』と気づいた。
「……大丈夫? 何かあったの?」
「………………」
「大紀?」
「……さっき、栄治と色々あって」
「何があったの?」
「……近親相姦だよ。分かる?」
「………………」
明理はすぐに理解できなかった。
「裸で抱きつかれて、脅された」
「………………」
「……狂ったんだ、俺のせいで」
明理は考えても、考えても、分からなかった。なぜ栄治が大紀とセックスしたがったのか? 二人の間に何があったのか?
「……してない、でしょう?」
「したのと同じくらい、怖い」
大紀の声は震えている。
「どうして、そんなことになったの?」
「知らない、分からない」
「栄治はどうしてるの?」
「家を出たから……たぶん、ベッドで寝てるだろう」
「逃げてきたの?」
大紀にとって、崖の淵へ追い詰める言葉だった。恐怖が裏返って、大紀は怒鳴った。
「じゃあ、息子とやれってか?」
明理は「違う!」と叫んで、尤もらしく、助言した。
「ちゃんと向き合ってあげればよかったんだよ。大紀が愛してくれているか、確かめようとしたんでしょう?」
そんなに偉いことを言える立場ではないことは自覚している。大紀は大袈裟な溜息をついた。
「だったら、普通に聞けばいいのに」
裕太が栄治を助けたがる理由を、明理は察した。
「そうしなかったのは、大紀のせいじゃないの? だって、おかしいでしょう……近親相姦なんて。栄治は本当に思いつめていたんじゃないの?」
大紀の心に、栄治の裸が浮かんだ。
「俺は……まともな父親として、栄治に向き合えてなかったけど、お前にだって、非はあるからな? 健司にだって!」
「分かってる」
「栄治があんなに狂ったのは、引っ越してからだ! 俺と二人で暮らしてた時は大人しかったのに」
「じゃあ、私達に会わなきゃよかったのに」
「こんなに酷いことになるなんて、思わなかったんだよ。もっと、上手くやれる筈だった」
大紀は引っ越しを決めた時のことを思い出した。栄治を幸福にする為だったはずだ。でも、明理に再会してから、何度も不倫を犯したことを振り返った。栄治は気づいていたのだろう。明理がアパートに泊まった時、犯したこともあるから。その時、栄治は引っ越しが自分の為ではないことを悟ったのだ。
「……栄治が自立するまで、待ったらよかったんだ」
大紀は後悔を漏らした。
「どうして待てなかったの?」
大紀は鼻で笑い、「聞くなよ」と吐き捨てた。ずっと、離れ離れでいられたのに。そのまま永遠に人生を交わらせずに、生きてこれたのに。こんな中途半端な時期に、どうして?
栄治が母と別居している理由を聞いたことが、全ての発端だった。そして、大紀が語った言葉には、エゴが混じっていた。栄治が明理に会いたがったことも、大紀のエゴに従ったことだ。そうなるように仕組まれていたのだから。
『俺にとって、栄治は都合よかったな……アイツが母親を恋しがれば、明理を愛せる免罪符を得られる、てことか』
大紀は、ようやく認めた。唐突に「会って話そう」と明理を誘った。明理は黙っている。
「電話で済ませるなよ」
何年も繋がってきたのに、呆気なく断ち切るなんて堪らない。しかし、明理は「だめ」と断った。
「私達が不倫してること、裕太に知られてるから」
「……知られてなかったら、会ってくれた?」
「………………」
そもそも、終わらなかったかもしれない。
「ううん」
「俺と栄治を見捨てる?」
「健司と離婚しないことに決めたから」
『俺を愛してるくせに……ああ、子どもさえ、いなければ』
大紀は栄治への怨みを自覚した。
「私、栄治と二人で話し合いたいんだけど」
「なんで?」
「ちゃんと謝罪しないといけないから。大紀もしなよ。健司も裕太に謝るから」
「さっさと終わらせんなよ。自分が子供を失いたくないからって」
明理は「お願い」と祈るように頼んだ。大紀は透明な涙を流した。『ふざけんな』と心中で慟哭をあげながら。口では「わかったよ」と告げて、きった。
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