第43話

 僕は母と晩ご飯を食べていた。全て手作りの料理だ。冷凍やレトルト食品が出されたことはない。

 テレビが点いてないから、静かだった。伊藤家では、食事中にテレビを見ない決まりだから。四人家族が揃っていた時は、それでも楽しかった。でも、姉がいなくなり、父もいなくなり、母と二人で食べる時間は重苦しい。

 ご飯、焼き魚、煮物、みそ汁という普通すぎるメニュー……僕は箸でぼそぼそと魚の身をほぐして食べた。

 裕太の様子を見ながら、明理は『何かあったんだ』と気づいていた。不登校の兆しだ。阻止するために、「久々に晩ご飯を一緒に食べられて、よかった」と言った。

 僕は「うん」と答えたけど、何となく一緒に食べているわけじゃなくて、目的があった。

「明日から、学校にいける? まだ頭痛い?」

「ううん、いく」

 ほぐした魚の身を一口食べた。

「なんか、嫌なことあった?」

「別に無いよ」

「本当に無いならいいけど」

 母は煮物を食べた。僕はわざと時間を稼ぐように、ゆっくり魚の身をほぐしている。

 早く言わなきゃ……焦っているけど、ほぐした魚の身を口に運んでしまう。まるで、母の料理で口を塞がれるように。僕は味が無くなるまで、魚の身を噛んで噛んで噛んで、のみこんだ。石のようにかたくて、喉につっかえた。また箸が動いたけど止めて、母を見た。母は何も悩まずに、食事をしている……不倫したくせに、どうして平気でいられるんだろう? 

 止まっている僕に気づいて、「どうしたの?」と聞いてきた。

「……お母さんって、お父さんと喧嘩したの?」

 母は戸惑っている。

「そんなことないよ」

「別居したの、そのせいかと思った」

「仕事だよ。転勤したの、お父さんは」

「………………」

 上手く話せなくて、もどかしい。正直に知っていることを、すべて曝したいのに。

「早くみそ汁のまないと、冷めちゃうよ」

 母に促されても、僕は食べなかった。

 怖いから逃げたい……でも、ここで逃げたら、栄治との地獄はいつまでも終わらない。死ぬまで追い詰められる。それはそれで正しいのかもしれない、けど……どうせ死んでいいのなら、最後に特攻しても、いいかもしれない。僕は口を開いた。

「お母さんって、栄治のお母さんでも、あるんでしょう?」

「………………」

 突然、大きな問いをぶつけられて、明理も止まった。何故この時が裁きに選ばれたのか? 明理は裕太の顔を見て、食事に視線を落とした。

「栄治から聞かされたんだよ。ずっと、前に」

『……ずっと、前に』

 明理は黙っている。

「栄治のお父さんの方が、好き?」

「………………」

「栄治も、栄治のお父さんも、お母さんと一緒にならなきゃ壊れそうだよ。栄治は僕が憎くて、殺さない限り、満足できないみたい」

「………………」

「……お願いだから、栄治を選んであげて。僕は……大丈夫だから」

 明理もようやく口を開いた。

「お母さんが要らないの?」

 裕太は首を振った。

「そうじゃない。でも、このままじゃ――」

「栄治に虐められるから、辛い?」

「違う」

 裕太の目から、涙が溢れた。

「お母さん……ぜんぶ聞いてるんだよ。加奈の部屋で、栄治のお父さんと会ってたでしょう?」

 明理は口を開いたまま、止まっている。

「栄治も一緒に聞いたんだよ。僕の耳を塞いでくれた。お母さんの声が聞こえないように」

「………………」

「お母さんは一人しかいないのに、欲張りだよ。僕のお母さんでもあって、栄治のお母さんでもあるなんて無理だ」

『ぜんぶ、私のせいってこと?』

 何年間も母として捧げた人生がひっくり返されたのに、明理は絶望を通り越して、冷笑したくなってきた。でも、母として「ごめん」と謝った。目の前にいる火傷を負った孤児が、あまりにも哀れだから。

「裕太。お母さんのこと、嫌い?」

 裕太は首を振る。

「お母さんが嫌いだから、栄治のお母さんになってほしいんじゃない。そうしないと、栄治も大紀さんも……死んでしまいそうだから」

「裕太はそれでいいの?」

 裕太はゆっくり頷く。

 明理は悲しんだ。本当は泣きながら、『僕はお母さんと一緒にいたい!』と叫んでほしかった。いつの間に、こんなに変わってしまったのか? 明理の目の前にいるのは、本当に裕太なのか?

 裕太は他人の幸福のために、自分を犠牲にするつもりでいる。でも、結局、この家から出ていく羽目になるのは明理だ。

『私は供物なんだ』

 明理が伊藤家から加藤家に捧げられなければ、世界が崩壊すると言わんばかりに、裕太は必死に訴えている。実際、そうしなければ、因縁が永遠に続きそうだ。今、その犠牲になっているのは、裕太と栄治だ。

『でも、なんで、私ばかり……健司と大紀が悪いのに』

 激しい怒りが込み上げてきたが、裕太のために、母として抑え込んだ。

「裕太がそんなに言うなら、お父さんと話してみる、けど……」

 つい『けど』と足してしまった。この『けど』が引き金になった。

「よく、そんなことを私に頼めるね。元凶は私なんだろうけど」

 裕太は「違う!」と否定する。

「私を片づけて、スッキリしたいんでしょ」

「そうじゃないよ! お母さんが栄治を守ってあげなきゃ、駄目なんだよ」

「………………」

 明理は考えていた。どっちも愛して、悲劇が終わらないなら、どっちか犠牲にせねばならない。自分を犠牲にするくらいなら……大紀と栄治を犠牲にするしかない。栄治は可哀想だけど、ずっと伊藤家で生きて、今さら大紀を選んだ人生を送る気になれない。

『それにしても、捨て子なのに、母親を捨てようとするなんて』

 明理は初めて、裕太に敵意を抱いた。これまで、盲目的に愛していたのに……裕太の心を傷つけることを恐れていたから。

 その孤児は贖罪の証だ。誰から産まれたか分からないし、醜い火傷を負っている。結局、都合いい当てつけ場だった。裕太を愛すれば善人になれるし、憎めば悪人になっていく。

 今さら、この命からも逃げられない。明理は答えた。

「私がどうにかして、栄治も裕太も助けるよ」

「どうやって?」

「……私が栄治に謝る。あと、裕太を虐めないでって、言ってあげる。そうしてほしいんでしょう?」

 明理の冷たい声から、じっとりした憎悪を浴びた。大人の罪は大人が償うべきなのに、裕太はまだ罪悪感に沈められている。

 明理は立ち上がって、裕太の傍に来て、語った。

「私は、加藤明理になりたくないの。伊藤明理でいたいの。分かる? 我儘かもしれないけど、この家族の中にいたいから……許してくれる?」

「……だったら、不倫しないでよ」

 明理は「ごめんなさい」と謝り、頭を下げた。裕太は揺れる黒髪を見ながら、聞いた。

「どうして、お父さんを選んだの? 不倫するなら、大紀さんを選べばよかったのに」

『大紀にそうしろと言われたから』

 本音を隠して、明理は「ごめんなさい」と再び謝った。裕太は清々しい気分にはなれなかった。

「……栄治とは、二人きりで、会ってあげて」

「どうして?」

「大紀さんがいると、栄治は何も言えなくなるから」

「分かった」

 裕太はもう明理の目を見れなかった。大紀に頼んだ時と同じように、「栄治を傷つけないで」と頼んだ。明理は「うん」と答えて、裕太の傍から離れた。

 まだ母の皿には、晩ご飯が残っているけど、シンクに持っていかれた。僕は一人でダイニングテーブルに残された。僕の皿にも、晩ご飯が残っている。

 栄治の始末に母親を使うのは、驕ったことなのか? それとも、当然の仕打ちか? 僕は箸を手にとって、『僕こそ、ごめんなさい』という気持ちで、全て食べきった。シンクに皿をもっていくと、母から「おいしかった?」と聞かれた。僕は頷いて、リビングから出ていった。

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