第33話

 休日出勤していた大紀が帰る途中、作業着のポケットに入れた携帯電話が鳴った。耳にあてると「今、話せるか?」と、健司に言われた。

「また栄治がやらかしたんですか」

「裕太に俺達のことをぜんぶ話したんだろ?」

「とうとう、お子さんから責められたんですか?」

「加奈に責められた。裕太は何も言ってない」

「……加奈ちゃん、先輩に似てますか? 俺に似てますか?」

「くだらないことを聞くな」

「はあ?」

 大紀は半ば道化のように演技していた。一緒に下宿先の女子高生とセックスして、孕ませて、産ませて、その親に軽蔑されて、下宿から追い出されたのに、のうのうと大学を卒業して、公務員になって、元・女子高生と結婚した健司を軽蔑するために。自分は罪悪感に耐え切れなくて、大学を中退したのに。

 そんな大紀に栄治がおしつけられた。大紀が初めて、赤ん坊の栄治を抱いた時、健司は冷たい目をしていた。その時の光景が大紀の心の中に凍りついている。

『コイツは俺より自分の方が上だと思ってやがる。実際、俺より上等な人生を送っている。給料も高い、社会的地位も高い、明理もいる。幸せな家庭がある』

 大紀は「加奈ちゃんも、俺におしつけたって良かったんですよ」と挑発した。健司は答えなかった……答えられないのか? 大紀は意地悪くせめた。

「あれから明理としなかったんですか? わざわざ血が繋がらない裕太君を引き取らなくても、つくれたんじゃないですか?」

 健司は黙っている。

「俺は何回もしましたよ。引っ越してからも」

 あっけらかんと、不倫を暴露する大紀を軽蔑した。だが、『俺も同じ穴のムジナだ』と分かっている。殆ど濁った罪悪感を抱えて、自分を清潔でいさせるための建前を吐き続けている。本音では、明理と同じように『俺は責任をとれている』と考えている。自分の子かもしれない加奈は育てた。明理を幸せにできている。無関係で可哀想な孤児の裕太も育てた……『俺の何が悪いんだ?』。

 明理とセックスしなかったのは、彼女が大紀を愛していることを分かっていたからだ。健司の虚しさを埋めてくれたのは、加奈と裕太だ。二人のおかげで、一家の大黒柱になれた。

『大紀からすれば、俺は狡賢く見えるんだろう。だが、罪に向かって、項垂れていれば償いになると勘違いしているなら、お前は哀れな未熟者のままだ』

 健司は反撃した。

「お前がしたいことが理解できない。お前の子も一緒だ」

 大紀はすかさず健司の最も痛いところを突いた。

「先輩が栄治を嫌がらずに育てれば、こんなことにはならなかったんですよ」

「………………」

 健司はもう言い返せなくなった。大紀が引っ越してくるまで、栄治のことは、ずっと考えないように生きてきた。栄治は不可侵領域だ。何も言い訳ができないから。健司が栄治を拒んだのは、ただ嫌だったからだ。明理が性懲りもなく、大紀とセックスしたことが嫌だったのではない。なにせ下宿先で健司と大紀は一緒に明理を犯したこともあるくらいだから。

 健司は栄治をのみくだせなかった。どうしても不潔に感じて、受け入れられなかった。その理由は、自分でも分からない。

「ぜんぶ、俺のせいだと言いたいのか?」

 健司が愚かな怒りを露わにして、大紀は喜んだ。これまで、自分の罪を分かっている風にすましていた男の化けの皮を剥がせたから。

「その尻拭いをしているのは俺でしょ」

「お前は栄治のことを、大事に思っていないのか?」

「そんなこと、お前が言えるの?」

 健司は行き止まりに追い込まれた。大紀は飄々として、せめ続けた。

「犠牲になってんのは、やっぱり子どもですよね。大人って悪いですね」

「……そうだ、悪いのは俺達だ」

 電話口の向こうから、大紀が笑う息が漏れてくる。

「で? 俺にどうしてもらいたいんですか? 栄治には、どうしてもらいたいですか?」

 大紀の問いは、健司の『お前がしたいことが理解できない。お前の子も一緒だ』を逆転させていた。健司は言葉を失った。

「栄治に大人しくしてほしいですか? 俺が厳しく躾けますよ?」

 健司は咄嗟に「栄治を責めるのは、やめてくれ!」と叫んだ。大紀は心中で、『どの口が言ってやがる』と詰った。

「なら、どうしますか? たぶん、栄治は性懲りもなく、裕太君につきまといますよ。アンタらにとって迷惑なら、もう学校に行かせないようにしますけど?」

「栄治を犠牲にしないでくれ」

「お前がしたくせに」

「………………」

 大紀は溜息をついた。健司は決断した。

「だったら、俺がいなくなる」

「はあ?」

「俺が家を出ていく。お前は、裕太が家にいない日中にでも、明理をしたいようにすればいい。そうしないと、気が済まないんだろう?」

 大紀は呆れて、悟った。

『コイツはぜんぶ俺の性欲のせいにするつもりだな?』

 健司が平気で責任逃れする人間であることを改めて思い知った。

「逃げるんですか?」

 すると、健司は怒鳴った。

「だったら、お前は俺達と関わることを、今すぐやめてくれるか? どうせ無理だろう! また引っ越して、俺達の前からいなくなることはできないんだろう?」

 大紀は初めて健司の大声を聞いた。怒りだけではなく、悲しみの響きもあって、思わず黙ってしまった。大紀が何も言わないので、健司は嘆いて責め続けた。

「いい加減にしてくれ……子供達が可哀想だろう? 俺達だけの問題だったはずなのに」

 健司は大紀を異常者扱いした。そうして、巧妙に自分を真っ当な親の立場に移動させた。その人間性に吐き気を感じたが、自分も栄治を虐待していることを思い出して、責め返せなかった。痣だらけの栄治が泣く顔が心に浮かんで、頭にのぼった血が一気に冷めた。責任転嫁するように、大紀は明理の姿を思い浮かべた。

「……栄治を産んだ明理のことは、怨んでますか?」

 核心を突かれたのか、健司は黙っている。

「裕太君をひきとったことは、後悔していますか?」

「いいや」

 裕太は健司にとって、自分を善人たらしめる重りだ。健司は荒くなっていた呼吸を落ち着けて、淡々と告げた。

「俺がいない間、明理に会いに来て話せばいい。もう明理からお前に会いにいくことは無いからな。裕太と約束したから。裕太が家にいない間、明理と相談して……明理が、やっぱり、お前と一緒になることを望んでいるなら、離婚する。裕太が高校生になったら、お前が栄治と二人で生きてきたように、俺は裕太と二人で生きる。お前は、俺が明理と子供達と生きてきたように、お前と明理と、栄治の三人で生きればいい」

「………………」

 大紀は憎しみを込めて、何かを言い返すことが恥ずかしいとさえ感じた。

『結局、悪人にされるのは俺か』

 大紀は自嘲した。

「分かりましたよ。だったら、この一年で片づけましょうか」

 大紀の煽り口調は、健司の怒りの琴線を容赦なく震わせたが、健司は堪えて、何も言い返さなかった。何十年ぶりに怒鳴り声をあげて、喉が痛んでいる。その痛みは健司にとって、屈辱であり恥であり、誇りだった。自分が家族のために、激怒できる人間だと知れたから。健司は卑怯ではない人間になった気分で、電話口の向こうから、大紀を待ち構えた。

「俺から聞く前に、先輩の方からも明理に聞いてくださいよ。どっちと一緒にいたいのかって」

 健司は偉そうに「ああ」と答える。大紀は軽蔑の念を深めながら聞いた。

「わざわざ先輩が家から出ていく必要は無いでしょう? どのみち、裕太君が家にいない昼間は、俺だって仕事中だし」

「いや。今は明理と距離を置く必要があるからな」

 大紀はふと『コイツは普通に明理と離婚したがっているだけかもしれない』と考えたが、「そうですか。分かりました」と告げて、電話を切った。

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