第25話
僕が家に帰ると、母が「おかえり」と迎えた。僕は「ただいま」と小声でこたえて、靴を脱いだ。
お風呂に入って、シャワーを浴びながら、不幸を見つめた。母の不倫だけではない。自分の生い立ちのことも……これからも、何も知らない自分を装って、生きていくのか?
僕は震えた。自分の真ん中が虚ろになった。もう何もつめられない。死ぬまで、塞がらない。僕に生じたのは、底無しの渇望だ。永遠に何かを欲しがる空腹児を飼ってしまった。本当に何も知らずに、平和ボケしていた頃には戻れない。
両親は僕を虐待せずに育ててくれたけど、その奥底に惨い真実を隠している。シャワーをとめて、深呼吸をしても、激しい動悸を抑えられない。僕は閉じた瞼に力をこめた。
何も悪くないんだ……お母さんは不倫したって、家族を大事にしている。お父さんだって。血が繋がってなくても、十五年間も育ててくれたんだから。
僕は家族の思い出を振り返った。そしたら、姉のことが気になった。姉は両親と血の繋がりがあるのか? 肌の色は母に似て、顔立ちは父に似ている。僕は肌の色も顔立ちも、両親に似ていない……そういえば、家族写真でも、僕だけ馴染んでいなかった。
僕は曇る鏡にシャワーを浴びせて、鮮明に自分の姿を映した。赤い火傷が浮き立った。
僕と血が繋がっている両親は、どんな人なんだろう? 今さら実の両親に会う気にはなれないけど、その姿を想像した。でも、透明人間だ。鏡は曇り、自分の姿も消えていく。
僕は何に喩えられるんだろう? 栄治は自分を、石が水に転がって生じた波紋に喩えた……どうして、お父さんとお母さんは、栄治を育てなかったんだろう? でも、そうなっていたら、僕はどうなっていたんだろう?
自分の命が頼りなくなった。もしも、伊藤家に引きとられなかったら、施設で育てられていたかもしれない。最悪、野垂れ死んでいたかもしれない。別の両親に引きとられて、今とは全く異なる生活を送っていたかもしれない。僕が僕であることは幻なんだ。伊藤家で幸福に生きられた偶然に感謝するしかない。栄治が、自分は何でも無かった、と語ったことが、やっと理解できた。
その時、脱衣所に母が入ってきた。僕は咄嗟にシャワーを流した。
「大丈夫? のぼせてない?」
磨りガラスの向こうで、影が動く。
「最近、長風呂だね? 塾で疲れが溜まってるの? あんまり無理しないでね」
「うん……」
母は脱衣所から出ていった。僕は顔が熱くなった。感傷に浸った自分が気持ち悪い。シャワーを浴びて、汚れを洗い流した。幸福な自分を不幸だと思い込まないように、自分に言い聞かせた。
『父さんも母さんも、僕を甘やかして、育ててくれたんだから、悲劇の主人公みたいに振る舞うなんて、恥ずかしい』
僕は浴室から出て、体を拭いた。
……あと三年経てば、僕も大学生になる。一人暮らしして、社会人になって、結婚すれば、もう大丈夫だ。自立できれば、生い立ちも関係なくなる。あと三年。今年も含めれば、四年。四年で、蛆虫みたいに悩む必要はなくなるんだ。
その晩、僕は部屋に閉じこもって、必死に受験勉強をした。
両親からは、地元の国立大学より偏差値が高くないと、県外の大学にはいかせない、と言われている。地元の国立大学の偏差値は五十五だ。上京した姉は偏差値が六十の私立大学に通っている。僕は絶対に偏差値を五十五より上げなければならない。自立を獲得するために。
だから、猛勉強した。ペンをもつ手が痛くなっても、問題を解き続けた。それが僕なりの現実逃避だった。
深夜零時を過ぎて、就寝したけど、明日も栄治に心を搔き乱されるかもしれない。言い返す言葉をいくつも考えて、心の壁を築き上げた。それが僕なりの闘争だった。
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