第20話
僕は浴室の鏡を見て、母にあるかもしれない正三角形のホクロを思い出した。鏡にシャワーを浴びせて、自分の背中を見たけど、ホクロは無い。だんだん鏡は曇り、自分の姿も消えていく。虚しく溜息をついた。
思い切り、鏡を壊せば、少しはスッキリしそうだ。でも、できない。妄想の中では、本当に鏡を壊して、手を血まみれにできるのに。現実にいる僕は臆病だ。
湯船に浸かると、誰かが脱衣所に入ってきた。「今日、パジャマを着替える日でしょ? 新しいの置いとくから」と母が言う。僕は磨りガラスの向こう側で動く影を眺めた。心の中で、嬌声が鳴り響く。やがて、母はいなくなり、嬌声も薄まって、消えた。
また脱衣所に、誰かが入ってきた。影の大きさで、父だと分かった。歯を磨いている。シャコシャコと小さい音が聞こえる。父は歯磨きを終えて、脱衣所から出ていった。孤独になった僕の心は鉛のように重くなった。
『僕は、僕だけが……僕が知っているということを、知っている』
湯船に沈んだ。息ができなくても、楽だった。目を開けても、水中だから、何も見えない。照明の光を感じるだけだ。
なぜか、僕の心は軽くなった。あたたかい水の中が思いがけず、逃げ場になった。目をつむると、真っ暗闇になる。
……僕って、死にたいの?
自殺を考えると、急に息苦しくなった。冗談じゃない、と心が叫んでいる。生きたい自分が死にたい自分に抵抗している。
僕は湯船から、顔を出した。ぜえぜえ息を吸って吐いた。濡れた髪から、だらだら湯水が流れていく。立ち上がると、のぼせているのか、ふらついた。
僕は何してんだろう? 泣きたくなるほど、馬鹿馬鹿しい。顔を拭って、浴室から出た。
いつも通り、水を飲むために、台所に向かった。リビングでは、父と母がソファーに並んで、テレビを観ている。今まで、その様子を見ても、気にとめず、さっさと二階にあがっていた。
確かに、その光景は平凡な家庭の日常であるはずだった。でも、コップに水を注ぎ、ペットボトルを冷蔵庫にしまった時、不安に襲われた。
『僕の母親は、本当に、僕の母親なのか?』
僕は母という存在に不信感を抱いた。直感で確信できていたはずなのに。『何もかも暴け!』と、いきがる自分の声が聞こえるけど、口を開いても、言葉は生じない。もどかしかった。自分が思っているより、自分は臆病だ。悔しい。
僕が唇を噛んでいると、父が「どうした?」と聞いてくれた。でも、鬱陶しがるような声音だった。僕は母を見た。母も「どうしたの?」と聞くけど、無表情だった。「なんでもない」と答えて、二階に逃げようとしたら、父が告げた。
「そうだ……栄治君のお母さん、行方不明になったらしいな」
僕は息が引き攣った。
「警察が捜索しているらしいけどな」
辛うじて、声を振り絞った。
「……栄治から、聞いてるよ」
母は何も言わない。
「……じゃあ、勉強してくる」
僕は二階に駆けあがった。両親がいる一階は地獄になった。天国のように装われているけど……これからも、僕は何も知らない子どもを装って、のうのうと暮らし続けるのか? 自分自身に吐き気がする。
青く暗い部屋の中に閉じこもると、嬌声が鳴り響いた。震えて、鳥肌がたった。自分の部屋も、自分を守る場ではないんだ。
ベッドに倒れ伏して、胎児みたいに蹲ると、栄治の姿が心に浮かんだ。初めて、僕の心が崩壊した時、抱きしめてくれた唯一の人間だ。もう僕の心を守るのは、僕の体しかない。その体を守ってくれたのは栄治だ。自分と同じ苦しみを分かち合えるのも、栄治しかいない。彼は大事な存在ではないし、むしろ、彼のせいで、大事な存在が真っ暗に潰されたのに。
僕は自分で自分を抱きしめながら、きつく目を瞑った。
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