第19話

 俺は大紀に躾けられていた。激しく頬を叩かれて、アパートの部屋中に痛々しい音が鳴り響いた。

「何回、言えば分かるんだ? 余計なことすんなって」

 大紀は悲しそうな顔をしている。俺は『惨めな奴』と蔑んだ。

「もう学校に行くのをやめるか? 裕太に会わずに済むように……どうせ、定時制か通信制の高校にいくんだろ? 勉強する必要ないじゃんか」

「………………」

「明日から、卒業するまで家にいろよ。言いつけを守れないなら、知り合いの家に預けるからな」

「嫌だ!」

 俺は叫んだけど、大紀に怒鳴られた。

「俺の言うことを聞けないのが悪いんだろ! こっちはお前が搔き乱したもんを、必死にとり繕ってるのに……向こうも口裏あわせるけど、絶対に、これ以上は無理だからな? お前だって、裕太に説明つけらんないだろ? それとも、『やっぱり俺のママは殺されてなかった』とでも言うつもりか?」

「………………」

 俺は臆病な大紀の目を見つめた。

「大紀はアカリに会いたくないの?」

「!」

 また殴られた。どうしようもなく、『惨めな奴』。

「……そっか。伊藤明理とセックスしたから、カトウアカリは要らないんだね?」

 俺の目から、涙が零れた。泣くつもりはなかったのに。大紀は動揺したのか、「ごめん」と謝って、懇願してきた。

「俺も不倫して、悪かったと思ってるよ。でも、頼むから、余計なことをしないでくれ! 俺だって、お前を殴りたくないんだ……やっぱり、引っ越したのは間違いだったな。二人でも生きてこれたのに。アカリと会っても、狂っただけだ」

 俺は狂ってないって、自分に言い聞かせた。狂っているのは大紀だ。どうして、大紀は自分のことを見れないんだろう。俺は最後の望みをかけて、もう一度、聞いた。

「大紀はアカリが欲しくないの?」

「……お前こそ、欲しいんだろ」

「伊藤明理が欲しいのは、大紀でしょ?」

「違う!」

 必死に叫ぶ醜い顔を見て、諦めた。

『大紀の欲望を俺が犠牲になって叶えよう』

 涙が流れるまま、訴えた。

「俺は母親が欲しいよ。俺のために、裕太から明理を奪って」

「………………」

 目を合わせているけど、何も映さないように真っ暗だ。俺は大紀の心が見えないし、大紀も俺の心が見えていない。

「それは……無理だ」

 大紀は弱々しく、断った。俺は父が憎くて、頭に血がのぼって、心の底から叫んだ。

「いい加減にしろ! お前が狂ってんだろうが! ぜんぶ俺におしつけやがって!」

 大紀は栄治の口を塞いだが、栄治は暴れて、泣き喚いた。十五歳ではなく、五歳児のように。

 隣人が壁を叩いた。大紀は焦って、「静かにしろ!」と叱るが、栄治は全ての音を掻き消すように、大泣きしている。また壁が激しく叩かれた。大紀はもっと焦って、栄治の口の中に手を突っ込んだ。泣き声は小さくできたけど、手に牙を突き立てられて、出血した。大紀は獣を躾けるように命令した。

「やめろ!」

 栄治は大紀が『分かった』と陥落して、自分(大紀)の望みに従うことを望んだ。大紀は栄治の望みに従うわけにはいかなかった。親子の主従関係が逆転するし、自分の子のために、他人の子を……裕太を犠牲にする羽目になる。それは最もしたくないことだ。

 裕太は明理が大事にする子だし、過去の選択を変えたくなかった。その選択は大紀にとって、大きな人生の分岐点だった。自分が心の底から望んだ道への未練を認めたくない。たとえ、カトウアカリと戯れても、伊藤明理と不倫しても、すべて『あの時の選択を変えない』という前提でやっていたことだ。

 大紀が選択を変えられない理由を正直に白状できれば、どれほど楽になれるのか。

『俺じゃ明理を幸せにできないんだよ。金が無いし』

 だが、言ってしまえば、『栄治は幸せにできなくてもいい』ということになる。それは栄治が余りにも哀れだった。罪ゆえに産まれた子だけど、罪を犯していない子だから。

『俺が栄治を引き取ったことは、贖罪でしかない、なんて……』

 狂気に染まる栄治の目を見つめた。明理に似た美しい顔を歪ませて、新しい選択を迫ってくる。口が血に濡れて、本当に化物のようだ。

「ごめんな」

 大紀は激しい痛みに耐えられなかった。ガムテープを見つけると、栄治の口から、無理やり手を引き出した。悲痛な泣き声を聞きながら、ガムテープで必死に口を塞いだ。手首や足首にも固く巻きつけた。

 その時、ドアベルが鳴った。大紀は殺人を犯したように動揺した。栄治を物置の中に押し込んで、弁解した。

「俺はこんなこと、したくないんだよ、でも……」

 栄治は何か訴えているが、言葉にならない。大紀は「静かにして」と頼み、物置を閉じた。

 血まみれの手を隠して、ドアを開くと、壁を叩きそうにない大人しそうな若者がいた。

「すいません、うるさかったんで」

 大紀は「ごめんなさい」と謝り、「親子喧嘩のせいで……」と説明した。

「叫び声が酷かったんで、通報しようと思ったんですけど」

 隣人は部屋の中を覗き込む。虐待を疑われていると気づき、大紀は冷や汗をかいた。

「いや、大丈夫です! 息子も落ち着いたみたいで!」

 大紀は何度も頭をさげた。

「そうですか? じゃあ……」

「はい、すいません、お騒がせしました」

 若者は隣の部屋に戻った。大紀は玄関で立ち尽くした。罪悪感に耐え切れず、外に出ていった。栄治は父が逃げた音を聞きながら、物置の中で蹲った。

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