第13話
ドアを開けて、家の中に入った。母の『おかえり』という声はかえってこない。栄治を二階の部屋に案内した後、お菓子と飲み物をお盆に乗せて運び、座卓に置いた。
二人で静かに勉強を始めた。
「受験って、嫌だよね」
緊張感を和らげようとしたけど、栄治は素っ気なく「うん」と言う。
「栄治の得意教科は何?」
「無い」
また原因不明の不機嫌だ。仕方なく、黙々と勉強を続けた。暫くすると、車の音が聞こえてきた。
「……お母さん、帰ってきたかな」
僕が呟くと、栄治は目を見開いた。カーテンを開けて、二人で駐車場を見下ろした。
栄治が「あ」と声をあげる。運転席から降りたのは大紀だった。助手席からは、僕の母がおりた。二人は何か話し合っている。
母が大紀の腕をひいた。僕も「あ」と声をあげた。咄嗟に『叔母かもしれない』と考え直したけど、なんで母の車に乗って、伊藤家に来たのだろう。あの女が叔母だと、すべて不自然だ。
だったら、どうして僕の母は大紀の腕をひいているんだろう……叔母と仲が悪いことを相談するためか……そうだ、きっと、そういう真面目なことを話し合っているに違いない。
二人とも、ドアに向かってくる。
「俺、大紀に殺されるかも」
栄治がポツリと呟いた。
「大紀が許す範囲をこえているから」
「………………」
許す範囲って、何? 僕は戸惑って、外を見た。まだ二人は家の中に入っていない。その気になれば、靴をとって、裏口から出られる。
でも、いっそのこと、逃げずに会ってもいいかもしれない。母は栄治を見て、どんな顔をするのか? 大紀が伊藤家に来た理由も問い詰められる。そうしたら、栄治が殺されるほど、痛めつけられるかもしれないけど……。
「!」
その時、耳鳴りが響いた。高く、長く……僕の思考は止まった。二人はまだドアの前にいる。僕は咄嗟に逃げる道を選んだ。
必死に階段を駆け降りて、ガチャガチャと鍵を開ける音が響く中、自分の靴と栄治の靴を拾い、すぐに階段を駆けあがった。
遂にドアが開いた瞬間、僕は音をたてず、自分の部屋に入り込んだ。
照明は消されている。青く暗い空間の中で、栄治は無言のまま、僕を迎えた。二人で一緒に息をひそめた。
それから、三十分以上も経った。どうやら、僕達が家にいることはバレていないらしい。車の音はしない。静寂の中で立ったまま、ずっと止まっていた。
「……僕のお父さんが出張から帰ってくるのは、夜の十時すぎだと思う。それまでに、大紀さんは出ていくよ」
「出張?」
「お母さんが出かける時、お父さんも出張するから」
「……偶然?」
「偶然でなきゃ、おかしいよ」
「偶然だと、おかしいよ?」
「………………」
「裕太のママは、どこに出かけているの?」
「『主婦業の息抜き小旅行』って、言ってるけど……」
栄治はクスクス笑った。
「!」
階段をのぼる足音が聞こえる。僕は緊張しながら、自分の部屋のドアを見つめた。母と大紀の話し声が聞こえる。隣の部屋に入る物音もした。そこは上京した姉の部屋だ。
僕は姉の部屋と接する壁をじっと見た。栄治は壁なんか見ずに、目を閉じている。かすかに、本当にかすかに、音が聞こえた。くぐもって、はっきりとしない、それは……『………………』……僕はじっと壁を見た。その光景は揺れはじめた。僕は息が苦しくなった。また耳鳴りが響いた時、栄治が僕の耳を塞いだ。
二人は目を合わせた。時が凍っていった。栄治の瞳は冷えきっているけど、裕太の瞳には、もがく熱がある。何より火傷がじわりと燃えるように浮き立っていた。
俺は裕太の狼狽える心を、耳を塞ぐ手から感じた。弱弱しい小鳥を手の中におさめているみたいだ。人間になりきれていない、醜い生き物……清濁の清だけ知って、濁を知らずに生きている甘ったれの馬鹿。気持ちいい子宮の中に閉じ込められている胎児。
「きこえる?」
裕太は震える瞳で、俺の唇を見つめてくる。俺は耳を塞ぐ手の力を緩めた。裕太を解放するように……その存在を守る母胎から引き剥がすように。
「きこえる?」
栄治がもう一度、聞いた。冷たい鈴が鳴るような声だ。僕はその瞳を見つめた。壁に目をうつした。また、その瞳を見つめた。
「……きこえる」
俺にしか聞こえない叫びだった。その目まで、悲痛な叫びをあげている。耳を塞ぐ手を完全に外してあげた。
嬌声がはっきり、きこえる。僕は息が苦しくて、眩暈がして、立っていることが出来なくなった。栄治と一緒に、僕はしゃがみ込んだ。
裕太が声を押し殺して、泣いていることを感じて、背中を撫でた。『泣くか』と思いながら。そして、抱きしめた。裕太にとっては、耐え難いことなんだろう。母は母でしかない筈なのに、裏切られたんだから。俺は声をおし殺して、笑いながら、「俺もきいてるよ」と慰めてあげた。
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