第9話

 七月になって、部活動を引退した僕は第一志望校合格に向けて、一心不乱に勉強しはじめた。

 僕もM高を目指すことに決めた。でも、心の底から、M高生になりたがっているわけじゃない。ただM高に合格すれば、僕の地元では尊敬されるから……そういうブランドに惹かれているだけだ。正直に言えば、高校生らしい青春を楽しめれば、どこでもいい。けど、偏差値が低い高校に通って、馬鹿にされるのは嫌だ。それに、大卒という学歴(しかも、名前を言えば、誰にでも分かるような大学)は獲得したいっていうプライドもある。だから、東大や京大の進学実績もあるM高が理想的だ。

 いつの間にか、僕にも偏差値・学歴主義が染みついていた。自分でも気づかないうちに。これから大学に合格するまで、地獄の受験生活が続くのに、既にウンザリしているけど、逃げ道は無い。

 偏差値・学歴主義を無視して、社会に居場所を確保できる道なんか見えない。大人が敷いたレール上を走るしかない。そこから外れないように、必死に勉強して、就職活動も同じように、大人が望む自分で勝負しておけば、何とかなるだろう。

 僕は父と同じ公務員になりたい。面接の時、醜い火傷のせいで苦労したら嫌だから、いずれ整形手術をするかもしれない。自分の顔が世間一般に受け入れやすいものではないことが屈辱的だ。そのせいで、自分を好きになることも、信じることも出来ない。

 だから、少しでも自分に優しくしてくれる他人には逆らえなくて、服従するような、依存するような、卑しい根性が沁みついている……自分で分かっているのに、何も変われずに、ずるずると引きずっているんだ。

 ある日、父が「受験勉強の息抜き」と称して、ボウリングに連れて行ってくれた。自分の趣味に付き合わせただけかもしれないけど。

 父はストライクをとって、上機嫌で戻ってきた。

「最近、何か悩んでいるよな?」

「別に」

「そうか? ……母さんから聞いたよ。双子の妹さんの話。今まで黙ってて、ごめんな」

「いいよ、謝らなくて」

 真面目な父も叔母の存在を認めたから、安心した。やっぱり僕のお母さんは、栄治のお母さんじゃないんだ、て。

 あの写真が心に浮かんだ。母の肩に手をまわす大紀の姿……ゾクッとしたけど、『あの女は叔母だから』と自分に言い聞かせて、恐怖を掻き消した。決して、母が不倫して、隠し子や隠し旦那がいるわけじゃない。

 ふと、光太から生々しい恋愛事情を聞いたことを思い出した。僕の両親だって……セックスをして、僕が産まれているんだ。改めて考えると恥ずかしいけど、何より、血が繋がった家族である証だ。

 父が言った。

「まさか、叔母さんの息子と同じクラスだと思わなかった。というか、裕太と仲良くするとはなあ」

「なんで? おかしなこと?」

「そりゃあ、母親同士が仲悪いなら、普通は関わらないんじゃないか?」

「確かに」

「……ほら、裕太も投げてきな」

 僕はボールを投げて、ピンを何本か倒した。父が「スペアを狙えるぞ!」と喜んだ。

 次の順番で、父がボールを投げると、またストライクだった。

「すごい!」

 僕が褒めると、父は機嫌よく戻ってきた。並んで座った時、母の家族のことが気になって、聞いてみた。

「……母さんは、いつから家族と仲悪いの?」

「結婚した頃には、仲悪かったなあ」

「お母さんの家族って、どんな人達?」

「会ったことない」

 僕は大紀から聞いた話を聞いた。

「母さんは……叔母さんが奔放だから、家出したんだよね?」

 すると、父は黙った。僕が『どうしよう』と焦っていると、「そんなことまで知ってるのか」と呟いた。その声音は暗かった。僕は怯んだけど、父がふっと微笑んだので、何とか話を続ける勇気を得られた。

「父さんは、叔母さんと会ったことないんだよね?」

「いや、あるよ。母さんと似て、美人だった」

 父が母以外の女を美人と言ったので、僕は何だかモヤモヤした。けど、冗談めかして言ってみた。

「……その『美人』な叔母さんの息子の栄治が、すごくイケメンなんだよ。僕も、お母さんに似れば、イケメンになれたのかなあ」

「子が親に似るとは限らないし、似なくてもいいんだよ」

 父が即答したので、僕はドキッとした。

「なんで?」

「別人だから」

「なんか……冷たいよ」

 父は笑っている。

「それぐらいで、ちょうどいいんじゃないかって気がする。だから、裕太が母さんや父さんに似なくても、気にしなくていいんだよ。ほら、裕太が投げる番」

 父は『お終い』と告げるように、手を叩いた。僕は突き放されたように感じた。父は寂しそうだが、穏やかで、満足げでもある。

 僕は心が不安定なまま、海に漂流するように一歩一歩進んで、ボールを投げた。その勢いが弱いせいで、軌道は曲がって、最後はガーターに落ちた。端のピンさえ一本も倒せなかった。父は「大丈夫、大丈夫」と励ましてくる。

 僕が隣に座ると、「今日は受験勉強のことを忘れて、何も考えずにボールを投げな」と言った。

「……父さんは、なんで受験したの?」

「うーん……そうするしかなかったからなあ」

 父もレール上を歩いてきたんだ。僕は悟った。たぶん、父の父も、その父親も歩いてきたんだろう。そりゃ僕が歩かないわけにはいかないよね。

 僕が「そっちの番でしょ」と促すと、父は「ああ」と立ち上がって、さっさと投げた。ボールは理想的な軌道で、ストライクを描き切った。何度目だろう? 「よし!」と喜ぶ父を「すごい!」と称賛した。僕がふらふら歩いたレール上を、力強く颯爽と歩ける父は確かに『すごい』んだ。社会人になって、お金を稼いで、一家の大黒柱になっているし、偉いんだ。

『それで十分すぎるほどなんだろう』

 僕は心が澄み切らないまま、納得しておいた。

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