第15話
小さな薔薇の蕾を抱いて、フィオは庭園へと戻りました。この子を咲かせるには、秘術の要として、ローザの慈愛が必要です。
フィオが彼女に見ていたアルカナは、カップのクイーン。ニグレドに蝕まれている逆位置の暗示は〝冷静さの消失〟でした。
本来の赤である姿を喪っている彼女からして、この暗示は正しいものではありません。正位置で〝愛情深い献身〟の暗示こそ、ローザの本質なのです。
「フィオ!」
ローザの手を握り、慰めていたクィンが振り返って呼びました。その顔にある困惑は、助けを求めています。
セフィロトに咲いていた薔薇は、今にも枯れてしまいそうなぐらい黒ずんでいました。ローザの姿は灰色と薄れ、自然への回帰が始まっているのです。
「クィンさん……! この薔薇を……!」
手渡した薔薇は小さく、可憐で、気品のある赤色をしていました。ニグレドに侵食されていない生まれたばかりの命。それを紡いで欲しいと、クィンに託します。
愛おしく、花枝に絡む細指。自分の血と、ローザの心を結んだ薔薇。秘儀によって生まれた命を、クィンはとても大事に抱きました。
「ローザ……」
跪き、クィンが憐憫の想いで囁きます。薄れていく彼女の意思を繋ぎとめるために、一輪の薔薇を捧げて。
「叔父上が愛した貴女を、見捨てることなんて出来ない。百の言葉よりも、一輪の薔薇を誓いとして貴女に捧げる。……どうか、これからは私と共に生きて欲しい……」
叔父上が遺したものを守る。その使命は理解となって、クィンに決心をさせました。『これからは私が貴女を愛する』と。
それは偽善でも、義務感からでもありません。彼女は自らの意思で、ローザと共にあることを望んだのです。孤独に咲いていた薔薇の、切なくなるほどの悲しい心を慈しんで。
そっと伸ばされた指先。虚ろな瞳が無意識に示した愛情。小さな子供のような薔薇を手に、ローザは薄い唇を震わせました。
「ああ……なんて……なんて小さな子……私はまだ必要とされているの……? 何もかも忘れてしまおうと……愛した人の気持ちにまで背いてしまったのに……」
ローザの瞳を潤ませる涙の雫。誰にも知られずに咲き続けていた薔薇の寂しさが、優しく滴りました。まるで、悲しむばかりだった日々を喜びで流していくかのように。
「貴女は必要とされてここにいる。叔父上が望まれていたように……もう孤独になんてさせない。メイヤーズの名に懸けて、貴女を愛そう」
手にする薔薇ごと、クィンはローザの手を包みました。結ばれた心を、決して離さないと誓うために。貴女を想う人が、共にあるということを解って欲しくて。
涙に濡れた薔薇。それは雫に揺すられて目覚めるように、鮮烈な赤を開きました。ローザが初めて見せてくれた微笑みを表すかのように。
「愛して下さるのね……こんな私をまだ……咲いていて欲しいと、貴女は望んで下さるのね……クィン……」
「ああ……共にいよう、ローザ。貴女が咲き誇る美しさを、私は見守り続けるよ……」
告白を受け入れてくれた喜びを、クィンも涙として溜めながら彼女と視線を交わしました。そうして、ローザの細指に触れた口付けが、永遠の誓いとなってセフィロトに欠けていた円環を紡いだのです。
薔薇の芳香が広まった瞬間、喪に服したローザの黒は、風に舞う花弁のように散りました。昇華された悲嘆は、鮮烈な高貴の赤を取り戻し、
パビリオンに俯いて咲いていた花々は顔を上げ、世界との拒絶を意味していた茨が解けます。
そのルーフに姿を見せた大輪の薔薇は、喜びのままに咲き誇り、美しい感謝を二人に見せるのでした。
ローザと呼ばれて愛された――薔薇である本来の姿を。
「……綺麗……」
目を奪われるまま呟かれたフィオの声は、それ以上の表現ができない溜息でした。永遠の愛を望み、望まれた世界。願いが咲き続ける庭園は、二度と穢れることのない美しさに輝き続けるでしょう。
赤と言う不変の色を持って。錬金術師が求める円環の真理が、幸福の形としてここにありました。
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