第14話

 託された願い。やらなくてはいけないという想いを抱いて、フィオは室内へと駆け上がりました。その手には、クィンの血が付いた茨棘があります。


 彼女は錬金術を行うつもりでした。世界を癒す錬金術師アルケミストの使命として。


 セフィロトに寄せられた想いを、フィオは守らなければいけません。永遠を願う想いは悲しみばかりではないと証明するために、運動不足で息切れした身体のことも忘れて準備を進めていきます。


 方法は分別蒸留。蒸発と凝縮を繰り返し、何度も混ぜ合わせた液体から霊薬を造り出すやり方です。


 哲学的な分離と混合を繰り返された水のアルカエウスは、目的とするものに対して適切な効果を発揮します。これは瓶に宿った精霊と言われ、生命のような働きをするのでした。


 小屋の中に残されていたメモ書きも、目的とした水のアルカエウスを造るためのものです。室内には雨水から精製したアンジェリカ天使の水を始め、ニグレドに侵されていないローズウォーターなどが保管されていました。


 彼女の前には火が焚かれたアランビック蒸留装置があり、そこには様々な形をしたフラスコが幾つも熱せられ、雫を溜めています。火にかけられているのはアンジェリカ水を始め、手を加えられた何種ものローズウォーターと、煮溶かされた茨棘です。


 フィオは確信していたことがありました。中庭に咲いていた子供達と呼ばれる薔薇は、ホムンクルスなのではないかと。それなら子供達という言葉の比喩に現実味が生まれ、亡くなられたオズワルド卿に寄せられていた想いは、夫へのものだったと繋がります。


 家庭という環が崩れ、そこから入り込んだ蛇の囁きに、ローザはニグレドを喪服として纏うようになってしまったのです。


 これによって彼女は子を育むローズウォーターを生成できず、咲かせられない悪循環に陥り、枯れることを望んでしまったのでした。咲き続けて生きる意味を、薔薇の貴婦人は見失っているのです。


 新たな希望がローザには必要でした。咲いていなければいけないと感じられる、新たな種子が。


 それこそ今、フィオが創ろうとしているホムンクルスでした。ローザとクィンの間に咲いた薔薇は、必ず救いとなってくれるはずです。オズワルド卿が行っていた時と同じように。


 クィンは言ってくれました。『頼む』と。彼女もまたローザを助けるために、精霊と心を交えることを選んでくれたのです。それに応えられなければ、自分が培ってきた知識なんて、まるで意味がないものと思えました。


 自分のためだけに行っていた探求が、初めて誰かの役に立とうとしているのです。


「フィオ~、お茶を淹れたわよ~」


 のんびりとしたお誘いは、戸棚からローズヒップを見つけたジェレーナのものでした。彼女はフィオの活躍が見たいと、ついてきていたのです。一人残されてしまう気まずさも含めて。


「……お、お茶を飲んでる余裕なんて……無いですよ……!」


「あら、蒸留なんかじっと見てたって、しょうがないでしょ? 時間潰しに、ゆっくりお話しでもしない?」


 ポンポンと椅子の背もたれを叩く仕草に、フィオは困りながらも促されてしまいました。蒸留される水が溜まるのには時間が掛かるし、それに、ジェレーナの心情を知る機会にもなると思ったのです。


「さてと、旧交を温めるにはちょっと複雑な状況よねぇ? だったら訊きたそうなことに答えてあげる。私がどうしてセフィロトを閉じるようになったのか……それを訊きたいんでしょ?」


 ティーカップに赤い唇を寄せる彼女の口調は、世間話でも始めるようでした。不浄の蛇として行ってきたことに、後悔する色なんて少しもありません。


「……私の知っているジェレーナさんは……そんなことをするような人じゃなかったはずです……どうしたんですか……?」


 ローズヒップの甘酸っぱさが香るカップに目を落としながら、フィオは言いました。長い年月が人を変えてしまうのだとしても、あんまりな変化です。優しかった黒猫が突然、小さな動物を虐め出すような残酷さを感じていました。


「貴女は知らないでしょうけど――ううん、知らなくても良いことだけど……人って、どこまでも自分の欲望のためなら利己的になれるのよ。自分さえ良ければ誰かの世界なんて、どうでもいいって感じでね」


 テーブルに肘をついて、絡めた指の上に顎先を乗せるジェレーナは微笑んでいました。悲しみも苦しみもなく、解っていた答えの証明が、ただ出来ただけという風に。


「不老不死はそんな欲望の一番だったわ。私達のずぅっと前から存在する素晴らしいセフィロトは、多くの人にとって穢しても構わないものだったみたいね。美しい願いを形にした世界が壊れていくのを、私や貴女のお師匠様は何度も見てきたのよ」


 過ぎたことだと笑って流す彼女に、フィオは痛ましい気持ちになりました。それが人の真理だと悟るジェレーナは、どれだけの悲劇を目にしてきたことでしょう。


 不老不死が当然である時代を生きた彼女なら、尚更。路地裏の子供達が蹴って遊ぶぐらい、賢者の石を精製する錬金術の秘儀は誰にでも与えられるものだったのです。


 それがいつからか特別なものとして、奪い奪われるようになっていきました。自分だけが唯一でありたいという欲望が、不老不死を秘匿なものにしてしまったのです。


 錬金術の秘儀は、奪う切っ掛けとなるために編み出されたのではありません。それが理解されず、争いの火種となったことに多くの錬金術師達は傷ついたはずです。


 ジェレーナもそんな不幸な一人でした。啓蒙の言葉による導きではなく、即物的な結果ばかりを求められるのであれば、一度忘れられてしまうべきだとする考えも正しいのかもしれません。


「自分の苦痛から逃れるために、訳も解らず誰かが築き上げたものを奪ってるようじゃ、願いなんて叶えちゃダメよね? そのために余計な争いをして、悲しみを広げてるようじゃ尚更。だから私は、セフィロトを閉じて周ることにしたの。『不老不死なんて夢物語よ』って、嘘つきになるために」


 ニッコリと口角を上げた彼女は、蛇そのものみたいでした。世界を周って甘い言葉を囁き、誑かす、蛇の錬金術師。


 世界が迎えた平和な時代の一端を、フィオはジェレーナに見ました。


 きっと彼女は、世界中の人々を嘘で導き、争わせ、貪欲な願いを懐くことにウンザリさせたのでしょう。錬金術の存在そのものを秘匿して、守るために。


 そしていつか、本当に人々の必要となった時、争いの火種としてしまわないように。だから、不老不死の証明であるセフィロトを彼女は閉じているのです。世界を周る不浄の蛇となってまで。


「……ジェレーナさんは……」


「うん? なぁに?」


「……ジェレーナさんは……それが絶対に正しいと信じているんですか……?」


 沈黙がありました。悩んで、気持ちを探る、静かな時間が。コポコポと心地良い蒸留の音が、今は耳に痛いくらい響いて聴こえました。


「信じたいわ。そうするしかないんだって。でもね、こんな真実は裏切って欲しいとも思っているのよ。争ったり、奪ったりしなくても、自分の世界をちゃんと人は創れるってね。……フフッ! これってズルかしら?」


 そう言って、ジェレーナは気恥ずかしそうに笑いながら、おかわりのお茶をポットから注ぎました。彼女も信じたいのです。人は欲望のために、奪うばかりではないんだって。


「……信じられますよ……」


 フィオは小さく、それでも確かな声で呟きました。決して奪ったりせず、ただ受け継いだものを必死に守るために、信頼まで与えてくれる人を彼女は知っています。


 クィンリード・メイヤーズという友人を。


「……信じられますよ……! オズワルド卿が愛した世界を守るために……親愛の形を創って捧げようとしている人だって……いるんですから……!」


 だから、その世界を壊さないで欲しい。貴女が信じられるものが、まだあるんだと、フィオは真っ直ぐにジェレーナを見つめました。ささやかな願いを叶えようとしている人の邪魔をする権利は、誰にもありません。


 世界の理を操る錬金術師にだって――。


「……フィオってば、泣き虫なところだけは数百年経っても変わらないのね?」


「……うっ……!」


 ローブの袖で顔を拭い、今一つ格好付けられない自分が恥ずかしくなりました。それでも誰かのために感情的になれた自分が、不思議と誇らしくもあります。こんな気持ちになれたのは、不老不死となった長い年月の中で、初めてのことでした。


「壊したい訳じゃないの……不幸を生まないのなら、見守りたいと思うのは本当よ。私だって、理を紡ぐ錬金術師の端くれだもの」


 ジェレーナは心の揺らぎを鎮めるように、カップの中身を飲み干して立ち上がりました。フィオを見つめるその赤い瞳は、遠い日に彼女が宿していた優しい色をしています。


「私は彼女じゃなく、貴女の言葉を信じてあげる。誰かの力になろうとする貴女の気持ちを、ね。それに……数少なくなった知り合いに嫌われちゃったら、悲しいじゃない?」


 そう言って、彼女はフィオの頭を撫でるようにローブを下ろすと、額に口づけをしました。ずっと昔に、可愛がっていた懐かし日を慈しむように。


「正直、言えた立場じゃないけど……頑張ってね、フィオ。貴女なら、きっと出来るわ」


「……あわわわ……」


「それと、サーキュラタム・マイナス小錬金術作業を組み込むなら、ガラスの口を呼吸できるように蓋しておいたほうが良いわよ~。せっかく創ったホムンクルスを、息苦しくさせちゃったら可哀想じゃない?」


「……あわわわ……!」


 口紅の色も判らないくらい、フィオは顔を赤くして慌てふためきました。そんな彼女を笑って、ジェレーナは小屋の扉へと歩いて行きます。見届けるまでもない、確かな結末を信じて。


「……あ、あの……ジェレーナさん……!」


「なぁに?」


 振り向いた彼女の前で、フィオは淹れてくれたお茶を一息に飲み干し、深々と頭を下げました。自分を信じてくれたこと、そして考えを支える教えを与えてくれたことに、少女はもう一人の師として導きを感謝するのでした。


「……お茶……ご馳走様でした……私、絶対に……セフィロトを治してみせますから……!」


 フィオはそう約束しました。誰かの願いを守れば、きっと彼女の救いにもなると信じて。世界を周った悲しみを、少しでも和らげてあげたかったのです。


「どういたしまして――と言いたいところだけど、メイヤーズ卿が残したものなんだから、お礼なんかいらないわ。それに……もっと大事に残された薔薇がもう一度咲いてくれるのなら……お礼を言うのは私の方だしね」


 その微笑みに、少しの後悔を見ました。もし、見守ってみようと少しでも優しくなれたのなら、こんなにも人を苦しめなかったと彼女は考えているようでした。


 壊さなければいけないという暗い使命感。ジェレーナを苦しめていた世界の在り方。『じゃあね』と手を振るう彼女が行き先が、これからは明るいものであって欲しいと、託された少女はそう願いました。

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