第10話
フィオは結局、一睡もできませんでした。充血した目に日差しは辛く、普段から被っているローブが更に目深となっています。
「……フィ、フィオ、大丈夫かい……?」
「……あ、はい……本当に……昨夜は……す、すいませんでした……」
「あ、あぁ……! 大丈夫だ、気にしないでくれ……!」
心配するクィンの様子も、どことなく気まずそうでしたが無理もありません。今朝の彼女は目覚めると同時に、隣でこんもりとしている毛布の山に仰天していたのですから。
昨夜の出来事が夢では無かったと知り、唖然と浮かべた表情は、貴族らしからぬものでした。フィオはそれどころではなかったので顔など見ていませんが、クィンからすればさぞ、気恥ずかしいものだったのでしょう。
「さて……それじゃあポンプから水を出してみようか」
「……はい……お願いします……」
不浄の原因を取り除いてから一晩、川は充分に毒を流せたはずです。フィオはその確認をしなければ、ちゃんと助けになれたという納得が出来ませんでした。
『君の誠実さを充分に信頼しているよ』とクィンは言ってくれましたが、事後の経過こそが最も気の抜けない作業だと錬金術師は知っていました。フィオは眠気覚ましの
手押しのポンプは咳き込むような音を立てて、水を吸い上げました。朝日の輝きを受ける冷たい地下水は、小さな虹を描いて土を濡らしていきます。汚れのない清潔な水を――。
「そんな……! どうして……!?」
フィオの叫びに、クィンの手が止まりました。彼女には見えているのです。毒々しい不浄の黒い澱が、水溜りに浮かんでいるのを。
「まさか……あれが原因じゃなかったのか……?」
苦悩に眉を寄せるフィオと同じく、クィンも衝撃に声を震わせます。確信できるだけの存在を目にした彼女にとっても、これは信じがたい事態でした。
黒い水溜りに視線を落とすフィオは、焦りながらも思考を巡らせます。見逃している何かを、気付けなかった根本を、探るために。
立ち昇る水の匂い。そこには、中庭の薔薇とは違う、僅かな香りが含まれていました。赤い貴婦人が描かれた絵と同じ、あの高貴な芳しさがあったのです。
「……これは川からの地下水じゃありません……ポンプの水は、別の場所から引かれています……」
フィオの気付き。原因は古城の地下にあると彼女は見抜きました。そして、それに応えるかのように、中庭の薔薇に見ていたアルカナは、唐突に黒ずんで逆位置へとひっくり返りました。
「いったい……何が起きているんだ……」
物事の本質を表すアルカナが逆位置となれば、激しい変化が起こります。呆然と呟かれたクィンの言葉に、フィオは異変を実感して振り返りました。
咲かない薔薇が黒く染まったのです。真っ黒な薔薇園はまるで、葬儀者の参列であるかのように悲しみと別れを告げています。逆位置となったカップの10とカップのナイトは、〝通わない心〟と〝離れていく人〟を暗示していました。
葬儀。喪服。フィオが深夜に見た、黒い貴婦人。思い出された彼女の言葉は『誰にも愛されないのなら、いっそ――』という絶望でした。
「フィオ!」
駆け出した背中に掛けられた戸惑い。別れの参列である黒い薔薇園を通り抜け、フィオは貴婦人の精霊が消えた小屋へと入りました。
閉じられていた空気と、埃の匂い。木製のテーブルや椅子が並ぶ簡素な部屋。そこにあったのは、園芸に使われる道具とは明らかに異なる探求者の器材でした。
フラスコ。レトルト。乳鉢。乳棒。大窯。蒸留器。
『叔父上は晩年、病気がちだった』というクィンの言葉に導かれるまま、フィオは飲まなかった薬包紙を開き、広がった白い粉を掬って舐めます。その苦みに秘めらた効能を、彼女は探ろうと思ったのです。
アニス。ノコギリソウ。オオグルマ。アマ。どれも胃薬として効果的な薬草ばかりで、丁寧な調合の末に精製された粉末はニグレドに続く
「……クィンさん……亡くなられたメイヤーズ卿は、錬金術に通じていました……この小屋に、何か秘密があるはずです……」
「叔父上が……?」
フィオは言いながら、テーブルに置かれているメモ書きを捲りました。内容は〝アルカエウス水〟の精製法。分別蒸留によって造り出される高度な水は、霊薬の準備として欠かせないものです。幾つもの走り書きからして、どうやらメイヤーズ卿はこれの精製に並々ならない熱意を持っていたようでした。
「フィオ……ちょっとこっちに来てくれないか?」
メイヤーズ家の事情に酷く困惑しているはずですが、それでもクィンは傍観したりせず、遺されたものを知るために動いていました。部屋の中心で屈んだ姿勢は、地下という言葉から足元を注視していた表れです。
クィンが指を差し込んだカーペットには、不自然な切れ込みがありました。何かを覆い、隠しているのは間違いありません。二人は顔を見合わせて、カーペットを引き剥がします。
そこには金具の取っ手が付けられた木の板がありました。持ち上げてみると、現れたのは螺旋の階段で、これは深く地下へと続いているようです。
「叔父上はいったい……何を隠されていたんだ……?」
疑問を口にしたクィンの手は、自然と腰のサーベルへと伸びていました。不安を顔に湛えながら降りて行こうとする彼女の前に、フィオが立ちます。
「……私が……先に行きます……」
錬金術の秘匿に対応できる眼は、錬金術師にしかありません。怪しむ場所へと赴くのなら、クィンの身を守るためにもフィオが先に進むのは当然でした。
「……すまない。君には我が家の問題を、ずっと負わせてしまっているね……」
情けないとばかりに自責する呟きを、フィオは頭を振って否定しました。血族であっても、人は誰かの全てを理解することなんて出来ません。だからこそ時に、他人の助けを必要とするのは当然で、恥なんかではないのです。
自分が彼女の助けになる。そう決心して、フィオは薄暗い階段へと足を進めましたた。
メイヤーズ卿が遺した、未知という世界へと。
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