第9話

 咲かない薔薇。不浄を撒く蛇。赤い貴婦人。重なるローザという名前――フィオの意識はベッドの中で、ますます覚めていきました。眠ろうと寝返りを打つ度に、鍵となる言葉が思考の扉を開こうとするのです。


(……眠れない……)


 目の下にクマをつくって起き上がったフィオは、熱っぽくなってきた頭を冷やすために、リネンのネグリジェ姿のまま寝室から出ました。冷ややかな青い月に照らされた石造りの廊下は、涼むには良い塩梅です。


 ペタペタと素足で歩きながら古風な城の光景を流していると、何らかの出来事が起きるんじゃないかと期待してしまいます。勿論、あくまでも期待しているのは良い出来事だけで、泥棒や悪戯好きの妖精といった面倒に出くわすのはお断りでした。


 ましてや幽霊なんて。ふと、そんな余計な意識をしてしまったせいで、ひんやりとしていた空気が急に悪寒のように感じられてきました。ぶるっと肩を震わせて、猫背ぎみに歩きながら考えてみれば、深夜の散歩なんて絶対に安全だと解っている自分のセフィロトでしかやったことがありません。


 一度考えてしまうと、眼に映るもの全てに勝手な妄想が働いてしまいます。風の音は笑い声みたいで、あらゆる影は誰かが隠れているようにすら見えてきました。


(……だ、大丈夫、大丈夫……! お化けなんて非科学的だよ……! いない……いない……! ………………いないよね?)


 錬金術というオカルトに片足を突っ込んでいる知識の持ち主は、現実的な思考にしがみ付きました。普通には見えない精霊の存在だって似たようなものなのに、フィオは怖いか怖くないかだけで物事を分別してしまうのです。


 高尚な知恵の持ち主は、唐突に部屋へ戻りたくなってきました。冷や汗をかくという気分転換も済んだことですし、そろそろベッドに潜って、じっとしているべきだと思っています。


 ふにゃふにゃとした弱腰な鼻歌を奏でながら、咲かない薔薇の広がる中庭を通り抜けようとしたところ――フィオは見てしまいました。


 真っ黒なドレスに身を包み、薔薇の蕾を悲しそうに撫でている女性の姿を。


 鼻歌と一緒に、呼吸も止まりました。『ひゅっ』という喉のひきつけが、手足も硬直させます。恨めしいことに、意識はやたらと鮮明に貴婦人の幽霊を注目するのでした。


「ああ……もうこの子達を愛してくれる方はいないのね……。ああ……誰からも愛されずに咲くことに、何の意味があるの……? それならばいっそ――」


 芯の通った声は絶望の色に染まり、諦めの冷酷さすら滲んだものでした。悲痛の涙が細顎を伝い、薔薇の蕾を濡らしています。まるで、最後の別れを告げるかのように。


 黒い貴婦人はフィオに気付いた様子もなく、中庭の外れに建てられた小屋へ、すぅっと通り抜けていきました。物音一つ立てないところからして、現実的な存在ではないとはっきり解ります。


「……ひっ……ぐっ……」


 フィオの固まっていた喉から声が絞り出されました。ようやくできた呼吸は浅く、荒いもので、血の気が引いた青い顔をなかなか元には戻してくれません。


 オカルティズムの体現者であるくせに、信じられないものを見たという気持ちで、まん丸になった目は、今にも転げ落ちそうなぐらい開かれています。すっかり過敏になってしまった意識は、よりによってそんな時、さらに余計なものまでも見てしまうのでした。


 廊下の先を横切る小さな影。フィオの逞しい妄想は、中庭へ面するベンチに、さっきまでが座っていたのではないかと答えを出しました。この古城には、自分とクィンの他に幽霊が彷徨っていると、雰囲気の相応しさから確信します。


 くらっと血の気が引く眩暈がしました。けれど、ここで倒れてしまったらお終いだと、フィオは器用にも片足を上げたまま反転し、ギクシャクと中庭から離れていきました。


 片手片足が同時に出るというぎこちない動きは、次第に冷静さを取り戻すと、今にも腰が抜けてしまいそうな勢いで加速しました。絶叫を堪える哀れな顔のまま飛びついた先は、クィンが眠る寝室の扉でした。


「フィオ……? どうしたんだい……?」


 睡魔に細めた目で、主人は騒がしい客人を迎えます。欠伸を噛み潰しながら尋ねる声は微睡んでいて、パクパクと魚みたいに口を動かすフィオの様子もあまり気に留めていないようでした。


「ででで、で……! お……おばっ! お化けが……出っ……!」


 安心したあまり、緊張の糸が切れてしまったフィオは、腰を抜かしてクィンに縋りつきました。瞳孔が開いている両目に、たっぷりと涙の雫が溜めながら、オタオタと目にしたものを口にします。


「ははは……古い城だからね……確かに出るかも……」


「で、出たんですよぉ……! 想像してた通りに、出ちゃったんですぅ……! ふぐうぅっ~……!」


 ついに決壊した涙の流れは、助けたノームに勝るとも劣らないものでした。そんな様子を、クィンはぼんやりと笑って首を揺らしています。


「……よし、それじゃあ私がやっつけてこよう……サーベルを取ってくるから……」


「ダ、ダメ……! 駄目ですぅ……! お、お、お化けを斬れる訳ないじゃないですかぁ……! い、一緒にいて下さい……! お願いします……! ほほほ、本当にぃ……!」


「ははは……うん……良いよぉ……」


 コクンコクンと傾く曖昧な反応でも、クィンは大らかにフィオを自室に受け入れました。二人は揃ってベッドに倒れ込むと、片方は縮こまって震え、片方は早くも夢の中へと沈んでいきました。


 普段のフィオが人様の部屋にお邪魔でもすれば、申し訳なさそうに隅っこで膝を抱えていたことでしょう。しかし、今は緊急事態です。毛布に潜り込んで丸まりながら震えている姿には、遠慮という余裕すらありませんでした。


 一人を好んでいた性格はどこへやら。誰かの存在を心強く思い、感謝している自分の変化に気付かないまま、彼女は眠れない夜を明かすのでした。

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