第5話

「……はぁ……はぁ……はひぃ……」


 上流へ向かって、フィオは河原を歩いていました。やる気が充分に満ちていても、悲しいことに身体がまるで追い付いていません。


「少し休もうか、フィオ」


「……す、すいま、せん……はぁ……はぁ……ううっ……運動不足で、ごめんなさいぃ……」


 錬金術師としての立派な佇まいはどこへやら。今やここにいるのは、運動能力がまったくない引きこもりの少女です。そのうえ、乱れた生活リズムで日の光を浴びているものですから、頭もクラクラしていました。


「いや、もう少し早く休ませてあげるべきだったね。私も、どうやら気が急いているみたいで……申し訳ない」


 先を歩いていたクィンに促されるまま、フィオは岩の上にへたり込みました。こんなことなら師と一緒に、もっとフィールドワークをしておくべきだったと今更な後悔をします。気が滅入っているはずの人に、心配させてしまう自分が情けなく、穴があったら引きこもりたいぐらいでした。


「さぞ慣れない道で苦労しただろう。見せてごらん」


 そう言って、クィンは片膝を立ててフィオの足を取ります。足首まであるサンダル紐を手際よく解き、素足は下げてる膝へと乗せられました。


「ク……!? クィンさん……!?」


「気にしないでくれ。献身は貴族の義務だよ。こうして僅かにでも力になれるなら嬉しいものさ」


 フィオの戸惑いは聴き流され、いかにも不健康そうな白いふくらはぎが細指に揉まれました。その度に優しい刺激が背筋へと走り、身体が仰け反ってしまいます。


「……ンヒッ……! ンっ……!」


「はははっ、君は本当に色んな声を出すんだね」


『……す……すいません……!』と謝りながらも、顔は恍惚としていました。だらしなく緩んだ口許は、今にもヨダレを垂らしてしまいそうです。


「フィオ、君はどうして不老不死になろうと思ったんだい?」


 もう片足のマッサージを始めながら、クィンは言いました。その言葉の音色には、秘儀に欲望を懐いたものはなく、ただ純粋な興味だけがありました。


「……ふ、不老不死は求めてなれるものじゃありません……あらゆる物質がそうであるように、自身のエイドス形相を知り、定めた意志がイデア姿となった時、ようやく顕現するものなんです……んひっ……!」


「ふむ?」


「……つ、つまり……自分が何をしたいのかに〝気付き〟、目指した〝形〟となった人だけに……賢者の石は実りとなって与えられるんです……あひっ……!」


 フィオの足を片手で揉みながら、クィンは薄い唇に考え込む手を添えています。自分なりに与えられた知恵に向き合おうとする姿勢は、多くの人が意外にも持っていない賢人の素養でした。


「夢を叶えた者こそが不死の賢者となりえる……そういう解釈で良いのかな?」


 ちらりと上目遣いで呟いた彼女に、フィオは喜びを隠しきれませんでした。錬金術の根幹は思想にあり、意味の解釈は個々人によって千差万別となります。無限ともいえる思考の世界でクィンが出した答えは、フィオの啓きにとても近かったのです。


「そう……! そうなんですよ……! 夢を目指すという行動は〝セフィロトの道〟を歩むことと同じなんです……! 思考を司るケテル王冠は理想の想像を意味し、セフィラという手段を通っていくことで、自分の世界であるマルクト王国に辿り着けるんです……! 創造性が物質世界に影響を及ぼし、その形となった概念は、なんと時間による変質を受け付けないんですよ……! 例えば知りたいという欲求が知識という形になって人に語り継がれていく中で、解釈は変わっても根幹の意味は変わりませんよね……!? これは思考が変化しない物質となったことを意味してるんです……! つまり賢者の石とは哲学的思考によって生じる結果としての物質であり、あらゆる外的要因による影響を受けない内的完全性を宿した不老不死の実りで――」


 そこまでまくしたてて、ようやくポカンと目を丸くしているクィンに気付きました。自信なさげな声質は変わらなかったものの、これまでにない饒舌さを発揮した彼女に驚かされているのです。


 フィオは自分が教育者気取りで調子に乗っていたことを悟ると、火でも着けられたかのように顔を真っ赤に染め上げ、気恥ずかしさに涙ぐんで顔を伏せました。


「……す、すいません……調子に……乗りました……」


「いや……! 謝ることはないよ! 少しびっくりしてしまっただけで――君が、好きなことをよく喋ってくれる子だと知れて良かったと思う!」


 顔を両手で覆うフィオに、焦り気味のフォローが与えられました。そんな優しさは悲しいことに、ますます恥の火を煽って彼女の心を火傷させていきます。


「……ううっ……! ……わ、私……! ……あ、な感じですから、楽しくなっちゃうと自制が効かなくてぇえ……! ……か、叶えた夢も、安心して引きこもっていたいという胸の張れたものじゃないんですぅう……!」


 叶えた夢の告白に身悶えするあまり、きゅっと縮こまってしまった足の爪先を、クィンは微笑みながら撫でました。まるで隠れる穴を探している小動物を愛でる手つきですが、そこには確かな友愛があります。


「いや、どんな夢であれ、それを叶えた君は立派な人だと誇りに思うよ。……私にはそれが無いものだから……羨ましくもある……」


 ついうっかりとした独り言のつもりだったのでしょう。けれど、それを聴いてしまったフィオの潤んだ瞳を見て、クィンは諦めたように微笑んで嘆息しました。


「私は夢というものを持てなかったんだ。貴族として生きるのが当たり前だと思っていたし、やりたいこともまるで思いつかなかったからね。与えられた環境に義務を果たしているだけの人生……だからこそ君たち師弟に、私は今の状況を変えてくれる希望を見たのかもしれないな」


「……そ、そんなこと……」


 凛々しく、毅然としていた彼女の哀しげな吐露に、フィオは言い淀むしかありませんでした。浮かんだ慰めの言葉が、かえって傷つけてしまうかもしれないと思ったからです。どうしたら良いのかも分からず、ただ彼女の独白に耳を傾けるしかない自分の知識不足を悔やむのでした。


「……優しいんだな、君は。だからこそ、そんな顔をしないでくれ。私は君の話を聴いて、自虐的になった訳じゃないんだ。自分が何かになれたんじゃないかという気持ちはあっても、今の立場には満足している。それに――君が語ってくれた大きな夢ほどではないけれど、小さな夢は見つけられたしね」


 そう言ってクィンは、はにかむ笑顔を隠すように、フィオのサンダル紐を結ぶのでした。眼差しの輝きに、悩みや憂鬱めいたものはありません。自分の立場を全うするなかで、小さな幸運に出会えたことを、心の火として胸を暖めているのでした。


「……それって……亡くなった叔父様の薔薇を守ること……ですか……?」


 そんなな呟きに、クィンはつい笑い声を溢しました。まるで気付いていない純朴な様子が、たまらく愉快に思えてしまったのです。


「そうだね。叔父上が残してくれた理想を守るのは、私の大事な務めさ。けど……夢は一つじゃなくても構わないだろう? 私の口からではなく、是非とも君に見つけて欲しいな」


「え……? え……? クィンさんの……夢……? ……ううっ……こ、これは難問かも……」


 困った顔でフィオは『むむむ……』と呻き始めます。自分の知識を必死に動員しても、まるで見当がつきません。


 助け舟を求めるように、向けた視線と重なったクィンの瞳には、優しい色が浮かんでいました。その真意に気付けないフィオは、どうやらまだまだ勉強不足のようです。

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