第4話

 フィオは馬車に揺られながら、外に出て来たことを早くも後悔していました。小窓から青ざめた顔を突き出し、『……うっぷ……』と込み上げて来るものへ抵抗しています。


「すまないね、フィオ。君を迎える為に用意したのだが……そんなにも酔ってしまうなんて……」


 申し訳なさそうに手綱を操るクィンの腕は巧みなものです。馬車の揺れは当然という程度で、単にフィオがセフィロトの外という環境に弱すぎるだけなのでした。


「……お……お気になさらず……うぇっぷ……ハ、ハーブを噛んでますから……うっぷ……こ、これでなんとか……うぷっ……うぅ……やっぱり来なければ良かったぁ……!」


 ペパーミントの葉っぱを情けなく口からはみ出しながら、弱音だけはしっかり吐きます。遠くを眺めて気を紛らわせるほどに、お家から離れているという実感が湧いて涙が込み上げてきます。


「……うぅ……き、昨日までの日々がすっごく遠い……」


「それだけ私の抱える問題へ親身に近づいてくれたということだね。改めての感謝は我が家でしよう――ほら、見えてきたよ」


 クィンに促されるまま、げっそりとした顔を向けた先に古城が見えました。メイヤーズ家が代々に渡って領地を守ってきた要です。所々に劣化は見られるものの剛健な造りは健在で、今でも戦いに備えているかのようでした。


 しかし、そんな厳めしさも時代と共に意義を失いつつありました。引きこもっていた分、世界の時勢に弱いフィオが訊ねたところ、どうやら世界は何百年ぶりかの安定期を迎えているらしいのです。


 小さな問題はあっても平和と思える日々が続く時代。それはフィオが不老不死になった頃では考えられない、幸福なものでした。


 きっと、敬愛する師や同胞達が成し遂げた神秘の影響でしょう。彼女達は旅の中で戦火に焼かれた自然を癒し、傷ついた人々を救う錬金術師の在り方を果たしたはずですから。


 それが大切なことだとフィオは解っていました。けれどいずれ忘れ去られてしまう知識の助けに、どうしても納得ができなかったのです。繰り返す過ちを認めない世界に対して、自分は無力だと痛感してしまうだけなのですから。


 それなら閉じた世界でも構わない。知識の探求とは内外を問わず、救われるために行われるもので貴賤なんかありません。誰かのためでなくとも、自分の助けとなるのであれば決して間違いではないのでした。


 人を傷つけないのなら、なおさら。だから、フィオは不老不死という選択を一度も悔やんだりしませんでした。不死に憧れ、誰かを傷つけることも厭わない人々の反証として、彼女は小さな世界で五百年以上も生きているのです。


 すっかり役目を終えてしまっている城壁を見て、引きこもっていた日々は間違いじゃなかったと確信します。もう、不老不死を望んで奪い合う時代は終わったのでしょう。それに耐えられなかったとはいえ、今はホッと胸を撫で下ろす気持ちでした。


「……うっ……あ、安心したら余計に……は、吐き気が……」


「どうか堪えてくれ。もうじきだから」


 薄い唇を失笑の形にしながら、クィンは中庭に向けて馬車を停めました。ようやく解放されたという思いで、フィオもフラフラと扉を開けます。


「ようこそ我が家へ。錬金術師という特異な方を迎えられて光栄だよ」


 クィンが微笑んで差し出す手を、おずおずと握り、フィオは赤ら顔でステップを降りました。青くなったり赤くなったりと、季節の果実だってここまで忙しくはありません。


 一面に広がっていたのは薔薇の花園でした。しかし、真紅のそれらは一輪として咲かず、どれも蕾のまま風に靡いています。


「これが叔父上の愛した薔薇だよ。招待した身としては、ゆっくり寛いでもらいたいところだけど……先ずは悩みになってしまった叔父上の自慢を見て欲しくてね」


 申し訳なさそうにクィンはそう口にしましたが、フィオからすれば大助かりです。きっと、あえて自分が礼儀を欠くことで気兼ねを失くそうと図ってくれたのでしょう。ゆっくりもてなしている内に、フィオがどんどん緊張してしまうだろうと解ってくれているようでした。


「……これは……自然の薔薇ではありませんね……創られた新しい品種です……」


 薔薇のひと蕾に触れながら、確信を持って告げました。そこに、普段の怯えた小動物といった様子は見受けられません。生じている異変を解き明かそうとする、一人の錬金術師がいました。


「一目で見抜くとは流石だね。そう、叔父上が創られた薔薇だそうだ。『ローザ』と女性的な名前も付けて呼んでおられたよ」


 それを聴いてフィオは納得しました。オラクルに映る小アルカナはカップの10とカップのナイト。正位置になっている二つは、それぞれ〝家族愛〟と〝贈り物〟を意味しています。


「……誰かに……このお花をあげていましたか? 例えば……贈り物として……とか?」


 フィオの言葉にクィンはますます驚きの表情を浮かべ、思わずとばかりに口元を覆いました。指の合間からは、興奮している笑みまでも窺えます。


「あれこれと君に説明するのは、かえって失礼な気がしてしまうね。その通り、叔父上は近くの村に薔薇を卸していたんだ。それがとても人気でね……加工品などを買いに来る人が後を絶たなかったぐらいだよ」


 嬉しそうに話しながらも、クィンの眼差しは悲しげでした。領地を引き継いでから、民衆の期待に応えられていない無念に苦しんでいるのでしょう。自分を不甲斐なく思っている気持ちが、フィオにも伝わってきました。


「……皆、この薔薇を愛してくれてた。だからこそ、叔父上は『ローザに会いたい』と今際にも口にされたんだ……。その無念に応える術が、私には解らなくてね……」


 快活な太陽が見せる翳り。その愁いに、フィオの胸はドキッと高鳴りました。悲しんでいても、それが痛ましく映らないのがクィンの魅力でしょう。誰かに支えてあげたいという気持ちを抱かせるのは、彼女のカリスマだという他ありません。


 哀愁を湛える美形に邪な感情を懐いた自分を戒めるべく、フィオはベチベチと凄い勢いで頬を叩きました。唐突な奇行にギョッとした顔を向けられてしまいましたが、緩んでしまった口元を見られてしまうよりずっとマシです。


 それに、自分なんかを頼ってくれた人が、悲しみに暮れているのは嫌でした。喜んで外の世界に出て来た訳ではなくとも、助けられるのなら力になろうとする気持ちがフィオにはあったのです。


「……ク、クィンさん……! あ、あの……! わ、私、頑張りますから……!」


 見るからに頼りなく眉をハの字にしたまま、フィオは精一杯に胸元で手を握り締めながら告げました。自分が誰かの支えになるという未知に、錬金術師である彼女は踏み込んでいったのです。


「ありがとう、フィオ! ようやく私の名前を呼んでくれたね!」


 晴れ晴れとした声と一緒に、感極まったクィンがフィオを抱きしめました。彼女の友愛は暖かく柔らかなもので、髪からは高貴とも言える上品な香りがしました。


「――ぴゃ……! あ……! うへ……! あ、あの……! わた、私……! お、おし……! お、お、お、お仕事しますねぇえ……!」


 荒ぶる感情の波を抑えつけた叫びに、『おっと、すまない』とクィンは離れてくれましたが、フィオの顔は薔薇にも負けじと赤く染まっていました。


「フィオ……? 大丈夫かい? つい強く抱きしめてしまったね……」


「……あっ……! だ、だい……! 大丈夫です……! あっ、あっ、あの……! そ、育ててるお水を見せて頂いても、い、良いですかっ……!?」


 長年、油を注されていないゼンマイ仕掛けみたいになりながら、ぎこちなく案内を頼みました。グルグルと渦巻いている瞳はさながら、巻かれているネジのようです。


「ああ、うん。こっちだよ」


 先導するクィンに続くフィオの手足は、片方ずつが一緒に動いていました。頼みの綱である錬金術師はなんともデキの悪い機械人形と化してしまいましたが、それでも貴族が向ける眼差しは好奇と愛おしさの混じる楽しげなものでした。


「使っているのはこのポンプで汲み上げたものなんだ。撒いている量は叔父上と変わらないはずだし……やはり、君の言う通り水質の影響なんだろうか……」


 そう言いながら地下水を汲み上げるクィンは不安げでした。知りようも無かったとはいえ、自分がしてきたことで薔薇を傷つけていたとすれば悲しいはずです。


 桶に溜められた水は昇ったばかりの朝日にきらめいて、透き通った輝きがありました。誰が目にしても、濁り一つない清潔な水だと口にするでしょう。


 フィオを除いて。彼女の眼に映っているのは、黒く淀んだでした。それが水面に浮かんでは溢れ、黒い斑を土に散らしているのです。


「……間違いありません……〝ニグレド〟が生じています……。何らかの原因で、汲み上げている水に……不純な存在が混じっています……」


 一目しただけで異変を確信したフィオに、クィンは驚きを隠せませんでした。言っていた通りの事態が、起きていたのです。


「ニグレド……? それは何だい?」


「……はい。錬金術におけるのことです……。これは〝黒化〟と呼ばれ……腐敗を意味しています……」


 疑問を浮かべていたクィンの顔が、悲しみと絶望に彩られました。叔父の愛していた薔薇に、自分はそんな水を撒いていたかという苦悶が表われていました。


 気の毒に思い、掛けられる言葉もありません。清潔だと信じていた水の実態が、腐っていたのと同じだと知れば、誰だって悔やみます。そしてこれを正すのが、錬金術師としての務めでした。


「……川の上流に向かいましょう。きっと……何かあるはずです……」


 内から湧く苦渋に形の良い眉を寄せながら、クィンは深々と空気を吸い込みます。フィオの提案に頷く彼女は、これまで以上の信頼を瞳に宿し、言うのでした。


「フィオ……どうか頼む。叔父上が愛した薔薇を……救ってあげてくれ……」


 言葉に秘められた贖罪。それを受け止めたフィオは唇を結んで、はっきりと頷くのでした。これまでの態度とは違う、強い意志を持って。


 メイヤーズ家が愛する薔薇に浮かんだ小アルカナ。それが、ニグレドによって黒く蝕まれているとは告げずに。

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