第3話

「――いや、これは驚いた。錬金術とはまさに魔法だね。それじゃあ、この島に渡るための飛び石も、何か仕掛けがあったのかな?」


 なし崩し的にお屋敷に上がったクィンは、『失礼で申し訳ない』と謝りながらも、錬金術の粋を凝らした室内に興味深々でした。ついつい見回してしまう一つ一つが、好奇の的となっています。


「……あ、あれは……半月……だから……です。月の引力で……水が……その……引っ張られて……小潮になる……から……」


 震える手でハーブティーの準備をしながらも、投げかけられた質問にポツポツとフィオは答えました。人見知りだろうと、知識を求められれば応じない訳にはいきません。啓蒙は知恵を持つ者の義務であり、可能な限り秘密にしてはいけないという錬金術師の教えがありました。それは、フィオが初めて師から教わったことでもあるのです。


「へぇ、月が水を? そういえば、確かに古い学術書には引き寄せる力というものが書かれていたけれど……今は誰も信じていないね。潮の満ち引きは海神が歩いて起こるものだと皆、思っているよ。勿論、私だって君に言われるまではそうだったし、神の導きに感謝したぐらいさ」


 古い学術書。それはきっと、ずっと前の錬金術師が書いたものです。けれど聴いている限りでは、誰にも認知されることなく、ひっそりと埃を被っているようでした。


 フィオは『ああ……やっぱり……』と失意の思いを抱きながら、カチャカチャとおぼつかない手つきでティーセットを運びます。知識というものは時代や思想の変化で切り貼りされるものだと、知っていました。


 悲しくも、フィオが書き記している知識だって国や宗教に与える理解とはなりません。真実は異端として晒され、無かったことにされるのが世界の常でした。


「引き合う力……か。不思議なものだね。君の師を通じてこうして出会えたのも、そういった奇跡なのかな?」


 真っ直ぐな視線でクィンにそう言われたのが、ティーカップを置いてからで良かったと本当に思いました。カップを手にした状態でそんな風にたら、きっとぶち撒けていたでしょう。粗相をしないようにと気を遣うほど、フィオはやらかしてしまいそうで小刻みに震えました。


「うん……! これは素晴らしい香りだね。ハーブは何を使ってるんだい?」


「え……? えっと……ローズマリーに紅茶の茶葉……それに蜂蜜を加えました……」


「なるほど、このスパイシーな香りはローズマリーか。料理の香りづけ以外で口にしたのは、初めてだよ」


 音もなくカップの中身を口にしたクィンが感激しました。気に入ってくれたのは何よりですが、どうにもくすぐったい気持ちになって肩がモジモジしてしまいます。人に喜んでもらえたのは何百年ぶりでしょう。


「ローズマリー……ローズ……か。実はね、錬金術師殿。私が抱えている問題も薔薇が関係しているんだよ」


「……は、はぁ……」


 ローズマリーはシソ科だからちょっと違うんだけどな。そんな余計な思考をしつつも、フィオは相談を聴くだけならと曖昧に返事をします。もしダメそうでも、出来る限りのことをすれば、クィンの人柄なら納得してくれると思っているのです。


「私の亡き叔父上――オズワルド・メイヤーズ卿は家名の二つ名である〝薔薇の貴族〟に相応しく、美しい薔薇を育てていたんだが……それがどうしたことか突然、咲かなくなってしまってね。枯れてしまった訳でも、発育が不足している訳でもなく、中庭に生えているんだ」


 カップに目を落とすクィンの姿は物憂げで、いっそう美形に磨きが掛かりました。まるで、お伽噺の王子が叶わぬ恋に悩んでいるかのような、もの悲しい魅力があります。


「……薔薇……には……そ、その……どんなお水を……与えていますか……?」


 土地を継いだばかりだという話から、フィオは土ではなく水に変化があったのではと考えました。水質の影響が魚を苦しめるように、植物も溶けんだ成分によっては辛い思いをするのです。


「水は叔父上が育てていた時のものと変わらないよ。中庭にあるポンプで汲み上げた地下水を使うんだ。魔法の水だなんて叔父上は言っていたけどね」


 薔薇を育てる魔法の水。不思議な響きですが、魔法と呼ばれる現象には大抵、錬金術師が関わっているものです。しかし、何らかの細工をした水で育てていたのなら、蕾のままということはありえません。薔薇を咲かせるという結果のために用意されたものなら、蕾のままという過程で停滞をしているのは疑問だからです。錬金術師ならば、咲かなくなってしまった現象に対して、枯れるという自然の理を構築するのが当然でした。


「……お、恐らく……ですけど……川の水質が変化したの……かも……。川沿いの村で……せ、生活が苦しくなったり……とかは……? 上流を調べてみると……良いかも……です……」


「あぁ……! 確かに村人も、醸造するワインの味が変わってしまったと嘆いていたよ。ブドウを育てる川の水と、薔薇を育てる地下水が同じなら、共通した問題を抱えていたことになるね。うん……そこまで思いつかなかったよ。調べてみようか」


 立ち上がるクィンに、フィオはホッとしました。どうやら原因に納得してくれたようです。再び安らかな引きこもり生活に戻れるんだと、気持ちがようやく落ち着いてきました。


「うん? 準備はそれで良いのかな、錬金術師殿?」


「……え……? ………………え……?」


 たっぷりの間をおいて、硬直しました。何を言われているのかも解らず、丸くなった目でぱちぱちと瞬きを繰り返します。『調べてみようか』という言葉の意味に、自分が含まれているとは思いもしませんでした。


「……あ、あの……?」


「必要なものがあれば何でも言ってくれ! すべて私が負担しよう! では、よろしく頼むよ!」


 胸に手を当てながら頭を下げるクィンに、フィオは絶叫してしまいそうでした。『一緒に行こう』と言われているのです。五百年以上ここから出たことのない生粋の引きこもりには、大冒険へのお誘いでした。


「……む、む、む……無理ぃ……! ……そ、それだけは……絶対に無理ですぅ……!」


「無理ではないさ! 君ほどの賢い人物なら、必ず原因を見つけ出せるよ!」


「……そそ、そ、そうじゃなくっ、てぇ……!」


 フィオはすっかり青ざめて涙目になっていました。そんな様子を汲み取ったクィンはそっと彼女の手を握り、『はひぃ……!』と上擦った彼女の鳴き声ごと包みます。


「……さっき、引力の話をしたね? 私はこれを真実だと思っている。君という星の輝きに引きつけられて、私は導かれたんだよ」


 しっとりとした声には、背筋を撫でられているみたいな甘さがありました。それが小出しにしていた口説きの本領発揮だとは、半ばパニックになっているフィオは気付きません。


「錬金術師殿――いや、フィオ。どうかその聡明な知恵の光明でもって、私の胸にある暗闇を晴らして欲しい。……君でなければ駄目なんだ」


 片膝をつき、哀願する眼差し。潤んだライトグリーンの瞳は孔雀石マカライトに似ていて美しく、吸い込まれそうな魅力があります。まるで夢物語の王子様に愛を説かれているような心地になって、フィオはつい自分がヒロインであると錯覚していました。


「はいぃ……」


 どうしようもなく、引きこもりの錬金術師は圧しに弱いのでした。グイグイ迫られると断れない弱々な性格をしているだけなのに、悲恋でも実ったかのように顔を赤らめて涙をポロポロ零しています。フィオの情緒は美形に必要とされているシチュエーションと、ここから出たくない気持ちのせめぎ合いで、すっかりメチャクチャになっていました。


 クィンのである王子様気質は、ワン・オラクルで占った太陽そのもので、暗示が指し示す通り純粋な人物だったのです。


 それが嘘や偽りのない人物、クィンリード・メイヤーズでした。フィオの師が紹介するだけあって、高潔な人物であるのは間違いありません。ちょっぴり強引ではあっても。


「さぁ、月の翳りが私たちの歩む道を隠してしまう前に、ここを旅立とう。……ずっと君の傍にいると誓うよ……」


 そんな、まるでお芝居でもしてるかのような大仰な台詞も彼女にとっては当たり前でした。涙を指で拭い、とどめとばかりに繰り出す甘い囁きは、引きこもりの錬金術師をメロメロにさせる十分過ぎるぐらいの効果がありました。


「……は、はい……うへ……うへへ……」


 嬉しそうに困った顔で、フィオはだらしない笑みを浮かべます。そのまま手を引かれながら外へと歩き出るも、とうとうクィンが太陽の暗示であるとは気付きませんでした。


 引きこもりの錬金術師。いわば〝隠者〟の足元は今やカンテラではなく、太陽の光によって照らされています。


 孤独を象徴するタロットの旅立ち。それを、すっかり酔っ払っている騎士ジャックの熊が憮然と見つめていました。

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